ゆるい繋がりがあれば、いいのよそれで。
こんにちは。スピリチュアルネイティブのタケルです。
今日は昼下りに、いつものカフェに来た。久しぶりに母親が遊びに来ていて、おすすめの定食屋で食事をして、コーヒーが飲みたいというのでご馳走した。
母は長いこと土産屋で働いていたが、今年、ついに定年退職した。しばらくは家の修繕とかご近所付き合いを楽しんだ後、最近は少しのお金をやりくりして、一人旅をするのが楽しみらしい。
自分としては、定年後の母親が何を生きがいにしていくのか気になっていたところなのだけど、案外にfacebookなんかでゆるく繋がり続けている友人らとお茶したりして、楽しそうにやっているのでホッとした。
SNSは時に煩わしいけど、緩やかでも繋がりがあることは、やっぱりかえがたい価値がそこにあるよな、とつくづく思う。
そう思うと、スピリチュアルカルチャーも、案外こういうゆるい繋がりや、共通言語による会話が成立する良さがあるよなあとしみじみ思う。自分はどうしてもこの文化と接してきた時間が長いので、
風の時代とか宇宙がどうとか、少し辟易してしまう部分があるのだけど、とはいえ多くの人にとっては、それ自体がネットを通じて他者と関わりあう上でのちょっとした共通トピックスになったりして、そういう意味ではツインレイで悩む多くの人にとっても、その悩みから副次的に出てきた他者とのつながりによって、実は人生のちょっとした部分を掬い上げられるような、そんな価値だってあるよねって思う。
それは文化の持つ素晴らしさで、それはどんな文化の中にもあるよな、と思った。自分どうにも口うるさいようなことばかりここの記事では書いているので、たまには母親のことを思い出して、大事なのはトピックスより繋がりであるという側面に思いを馳せねばと思った。
人が欲しいのは、真理よりも繋がりなんだよな。
今日はちょっと短いけどそんな感じ。
それにしても母親が口つけたまんま残して行ったコーヒーが、8割も残ってて、「コーヒー飲みたい」というから連れてきて奢った俺の立場ってなんだろうと考えてしまうな。はは。
読んでくれてありがとう^^