『銀河鉄道の夜』読書会を終えて

先日,私の母校の寮において宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の読書会を行いました.ここでは非常に興味深かった学生さんとの議論のうちの,一部を記載しておこうと思います.

読書会のレジュメと私の感想は下記のリンクに公開されております.

私が印象深かったのは,ジョバンニの言った下記のセリフについての意見でした.

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
(九.ジョバンニの切符)

物語のなかで銀河鉄道の旅をともにしたクリスチャンと思しき3名に対し,ジョバンニの言ったせりふです.クリスチャンの3名は沈没した船に乗っており,他の子供たちを押しのけて救命ボートに乗るよりも,死ぬことを選んだ人たちでした.ここには友人を助けるために溺れてしまったカンパネルラと同じ,自己犠牲の精神があります.

レジュメにもあった通り,仏教はもちろんキリスト教にも通暁していた賢治にとって,登場人物の少なくとも3名がキリスト教徒であったということは無作為のものとは思われません.キリスト教に限らず,仏教にもあるように,宗教には少なからず世を捨てるとか,自己を超えたものへの奉仕によってある意味自己を犠牲にするといった側面があります.しかし『銀河鉄道の夜』に出てくるように「ほんとうのさいはい」を目指すにあたっては,自己を犠牲にして他人を幸せにすることが本当に幸せな世界を作るただ一つの道なのか?という賢治の疑問が,先のジョバンニのセリフには現れているのではないか,というのが参加者から出た意見でした.

賢治は法華経に深く感銘を受けた仏教徒でしたが,俗世から離れるのではなくあくまで農業をする人々のそばにいて芸術や農作業を共にしました.また,自身の限界まで人々のためにはたらきましたが,おいしいものを食べたり音楽や演劇をしたり,張り詰めた自己犠牲からは遠い自分であったように思われます.そのような賢治が描いた,自己を犠牲にするのではなく最後まで生き抜いて仕事をしようとする姿が,ジョバンニには見られます.

そして私がやはり感銘を受けるのは,賢治の仕事は,宗教のみでなく科学をおおくの人に使うためにそそがれたことです.その科学へのみずみずしいまでの期待と,世の中をすこしでもよくできるという信念に,私は科学者というよりもエンジニアの理想の姿を垣間見る気がします.

次の読書会では,この自己が消えてしまうことを,ある種望んでしまう思想として反出生主義がありますが,このことについて取り扱うことにしました.(おそらくまとめ記事は書かないと思います)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?