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Revenant Doll 第18話

第2部

11 未読のままとなった桐谷刑事のメモ

 
(座光寺信光には二回に分けて資料を送ったのだが、以下のPDFファイルを添付した後続のLINEは未読になっていた。「心ここにあらず」で失念したのか、それとも何か別の理由があったのかは分からない。どちらにしても事件を解き明かす上で重要と考えられる部分であり、私なりの分析も交えている)
 
 事件と直接の関係はないが、「鬼」がキーワードになっている民間伝承を紹介しておく。子供の「かくれんぼ」遊びにまつわる内容で、三つの類型が北関東から信越の山間部を中心に分布している。つまり、事件現場である嬉野小とは地理的にも繋がっている。
 鬼になった子が木の幹に顔を当てて目隠しをしている間に、他の子らは思い思いの場所に隠れる。鬼役の「もういいかい?」の声に「まあだだよ」がひとしきり繰り返された後、どこからともなく「もういいよ」と合図される。鬼役の子は隠れた子たちを一人ずつ見つけていくが、最後の一人が見つからない。その子の家族が呼ばれ、夜更けまで捜索を続けても手掛かりすらなく、そのまま行方知れずになってしまう。無事だった子に一人一人確かめると、誰も「もういいよ」の合図を送った覚えはないという。
 もう一つのバリエーションでは、「もういいよ」を聞いた鬼役の子は誰一人見つけられず、隠れた全員が行方不明となる。
 三つ目の最も陰惨なストーリーの場合、鬼役の子が本物の鬼として正体を現す。隠れた子はすべて見つかり次第食い殺される。
 地域的には一人だけ行方知れずになるストーリーが最も広く分布しており、隠れていた全員が行方不明となる展開がこれに続く。本物の鬼が出現するのは一番のレアケースで、人口のまばらな山奥に限られていた。
 一人で済むにせよ全員の死が確定するにせよ、常に隠れた子が被害に遭う点は共通している。鬼役を担った子は、本物の鬼に変身する場合も含めて最後まで生き残る。思うにこれは、古くから実際に発生していた「神隠し」について、本質部分をぼやかして言い伝えたものではないだろうか。
 
 郷土史家の岩本××氏は次のように述べている(録取の日付は一九六七年五月七日)。
 
『鬼の役を担った子が実は本物の鬼であったというパターンが言い伝えとしては最も古く、続いて「全員行方不明」、そして「一人だけ行方不明」の順に派生していったと私は考えています。犠牲者を一人に限定するパターンが実害の少なさからいって最も受け入れられやすく、結果的に主流となって、最古の伝承を周縁へ追いやっていったのでしょう。「本物の鬼」が、隠喩として露骨過ぎることの反動としてタブー化の圧力を生じさせる一方、子供に対してはかくれんぼに熱中し過ぎる危険さを戒める必要もあったので、こうした地域分布が形成されたと考えられます』
 
 サイドストーリーとして、残された親や親族は消えた子らをどう扱ったのか。基本的には死亡したと見做し供養を行うが、「山の神に召された」「山の精霊となった」「土地神に嫁(婿)入りした」などの意味付けが個別の事情に応じた強弱で与えられる。そしてそのすべてがポジティブなイメージで彩られ、不吉さは払拭されている。もっとも、そこにどのような意図を憶測するにせよ、幼くして去った子らの冥福を祈る心が自然にそうさせたという説明は成り立つ。
 
 私は、時系列的には「かくれんぼ」に先行する伝承として「神隠し」があったと考えている。その理由は、神が「隠す」行為を能動的に行う主体として登場するからだ。
 本物の鬼が正体を現す場合──岩本説で最古とされるケース──でも、隠れた子供を食い殺す鬼の能動性が強調されるのに対し、他の二例では鬼役の子は受け身の存在に過ぎず、失踪する子供はあくまでも自主的に行方知れずとなる。恐らく岩本氏も、前者から後者までの間に何らかの操作が行われたとみていただろう。
 つまり神隠しであれ子供に化けた鬼の出現であれ、より古層にある伝説では、人間とは異なる「他者」の存在が前提とされているのに対し、子供だけでかくれんぼが行われる場合にはこうした「他者」の存在が消える。そして、被害者が一人に限定されるか全員であるかに関係なく、彼らに降りかかった災厄の真の理由は謎に包まれる。また、最初に捕まった子が次の鬼役を演ずるというルールも「鬼」と「それ以外」の区別を曖昧にする。ここで起きたのは、他者=鬼=神への問責を、一方的に子供への帰責に入れ替えるという操作ではなかったのか。
 現実世界で、追う側と追われる側が入れ替わることなどあり得ない。捜査員はどこまでも捜査員であり、犯人はあくまでも犯人だ。ただ、かくれんぼが子供の遊戯に過ぎないとしても、禁忌とされた事実の痕跡がその中に紛れ込んだ可能性はあるかもしれない。余談ながら外国のかくれんぼでは、一人だけ隠れてその他全員が鬼の役になる形式もあるらしく、日本では鬼役が常に一人というのも不思議な話だが、ここではこれ以上立ち入らない。
 
 伝説は、実際に起きた事件を大なり小なり反映している。事実を克明に記録することが諸事情によって憚られるあまり、ファンタジーを纏わせて意図的に事実を不可視化する場合もある。この外皮は時代が下るにつれて雪だるま式に膨れ上がることも多く、結果として後世の分析者が幻惑されてしまうケースも少なくないようだ。
 岩本氏は「最古の伝承が最も事実に近い」と明言してはいないが、真意は誰の目にも明らかだろう。別に内部告発したいわけではないが、彼が言うような形で伝承が分布していく経過は、当時の警察が津川俊助殺害を公式には失踪として処理したこととも奇妙に符合している。
 鬼が超自然的な妖怪である限り、科学的見地からはその存在を肯定しがたい。だから岩本氏の言葉を借りれば、あくまで「隠喩」すなわち「鬼に例えられた何か」が実在したのか否かということになる。

 神隠しの「隠す」主体は神であり、人間には不可視の領域にあって、子供をどこかへ連れ去る。だがそうした神もまた、人間の想像力が生み出した架空の存在という点で鬼と同類だ。そして伝説が、実際に起きた何らかの事実を内包しているのであれば、なぜそれを鬼や神の行為に置き換える必要があったのか。具体的事実を隠蔽しなければならない理由はどこから生じたのだろう。
 いずれにせよ、妖怪の仕業か否かとは無関係に「子供が隠される」ことは実際に起きていたのではないか。それは具体的にどのように行われていたのか。

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