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Revenant Doll 第21話

第3部

3 御蚕様


 
「待ってください、話を聞いて!」
 
 風で霧散したように見えても、煙の残り香はマーカーのように霊に纏いついてしばらくは消えない。俺はその後を追った。

 藤山はつ子の悪霊は校庭上空を抜け、黒々と山の佇む方角へ飛んでゆく。高度三百メートルほどから見下ろすと、ヒカリヶ丘市一之瀬地区一帯は闇の中に沈んでいる。時刻は十一時少し前。このあたりは一応住宅地のはずで、まだ人々が就寝する時刻とも思えないが、なぜこうも人家の灯りがないのだろう。
 そして、いつもは俺の先走った行動を戒めるエドが不思議に追い付いてこない。もっとも、まだ校舎で何が起きるか分からないし、儀式場の警戒は彼に任せておけばいいだろう程度に考えた。
 はつ子の霊が山腹の木立ちの中へ飛び込んだ瞬間、彼女を見失った。既に嬉野小から十キロ近く離れてしまっている。「しまった」と思いつつあてどなく木々の間を浮遊しているうちに、山の奥から何かが近づく気配を感じ取った。

 木々の間で、炎が揺らめきながら近づいてくる。人魂ではなく松明たいまつだと分かるまで大してかからなかった。十人を超える数の人間が列をなし、険しい林道を尾根伝いにどこかへ向かっている。背丈から年恰好や男女の別は分かるが、顔を晒している者はいない。狐やヒョットコ、猿など何の統一性もない種々の面が、松明の灯りに照らされて揺れ動く。

 誰もが口々に念誦を繰り返していた。それは雑多な仮面と同様、「南無妙法蓮華経」の七字題目であったり「南無阿弥陀仏」の六字名号であったり一様ではなく、中には「闇婆計陀那摩アンバケダナマ」という文殊菩薩の陀羅尼を唱える者もいる。それらの声の塊が、うねりとなって木の間の闇へ立ち上っていく。
 おどろおどろしい面や念誦に注意を取られていた俺は、ようやく彼らの風体の異様さに気付いた。男女の区別なく全員が着物姿で、最近の洋服を着ている者は一人もいない。その着衣もことごとく薄汚れ、襤褸のように擦り切れている。この人々はどこから来て、どこへ向かっているのか。

 仮面の集団はやがて林道の下りに入った。しばらく進んでいくうちに、目の前に谷地の水田が開けた。湿った夜風が吹き抜け、稲穂が揺れている。

 細い泥道の先に、杉林の斜面を背にして一軒のあばら家が鬱蒼と佇んでいる。瓦葺きでも茅葺きでもなく、木の板屋根に重石が載せてあるだけの貧しい造作から、とても人が住んでいるようには見えない。周囲には電柱も見当たらなかった。異装の行列は念誦の唸りを闇に滲ませながら、その廃屋然とした家へ歩みを進めていく。
 先頭の者が掲げる松明の光に、家の正面が照らし出された。木の戸口に手を掛け、行列を迎える様子で一人の女が立っている。藤山はつ子だった。

 その顔形から着物の色柄まで校舎屋上に出現した時と同じだが、俺の眼下にいる彼女はどう見ても悪霊ではなく、生身の人間だった。背丈も常人レベルに縮んでいる。

 行列の頭上に浮遊する俺の当惑など知らぬ気に、はつ子は無言で家の戸を開けた。松明の火が消され、入り口の前で見守る彼女の横を、異装の人々は無言で家の中へ入っていく。
 もしやこれは亡霊たちの集いではなく、事件当時に実際起きていたことで、俺はその現場に居合わせているのだろうか? 最後の一人が家の敷居を越え、はつ子が残りを確認するように入り口の外を見回した時、俺は彼女の正面に降り立った。言葉も掛けてみた。
 
「藤山さん? ここはあなたの家なんですか?」
 
 はつ子は表情一つ変えずに中に入り、引き戸を閉ざした。やはり俺が見えていない。どう見てもここにいる者たちは、俺以外の全員が生きた人間ということらしい。だとすると俺は、はつ子が生きていた当時の昔にタイムスリップしたのか。それとも夢でも見ているのか?

 ……落ち着け。戸惑っていても結論は出ない。たとえ幻覚だろうと夢の中だろうと、あの女が藤山はつ子に間違いないなら、まずは家の中で何が行われるかを確かめる必要がある。
 俺は閉ざされた引き戸を通り抜けた。

 神奈川県警の警部補主催による招霊の儀式に立ち会ったはずが、まさか招霊される側に回るとは思いもよらなかった。まあ、忌まわしき悪霊として調伏でもされるのなら、無闇に抵抗せず速やかに退散するしかなかろう。
 
 土間の先に、十畳ほどの板張りの座敷を埋め尽くす会衆たちの背中が見えた。皆正座し、二本の蝋燭で照らし出された座敷奥の方を向いている。蝋燭に挟まれたその中央に、土壁を背にして大人の背丈ほどもある何かが、白い布を掛けられて直立していた。会衆はその布を掛けられた立像のようなものに手を合わせ、ぶつぶつと何ごとかを念誦していた。

 突き出た頭や肩とおぼしき輪郭からどう見ても人の形だが、しばらく凝視しても微動だにせず、生きた人間の気配がしない。その全身を足元まで覆い隠す布は、見事なまでに純白で艶があった。ここに集った人々の御本尊であるにしても、布で隠したままというのは解せない。
 じっと見つめているうちに突然動き出し、この場にいる誰にも見えていないはずの俺に向かって、一直線に飛び掛かってくるのでは?……そんな妄想につい囚われそうになる。

 そして藤山はつ子はどこへ行ったのか。会衆の間に視線を走らせると、猿の面を着けているが髪型や浴衣の模様から明らかにはつ子と分かる女が、他の者と同じように板の間に端座して立像らしきものに手を合わせている。一心に何かを唱えているのも同じだった。この場所を提供した以外は、彼女も会衆の一人に過ぎないらしい。
 
 狭い部屋に充満していた念誦の呟きが突然止んだ。どこから現れたのか、ひと際目立つ風体の者が会衆の前へ進み出た。頭に折烏帽子を被り、赤い天狗の面を着けて白い狩衣風の衣装を纏っている。体つきから男であるらしい。天狗面の男は白布で覆われた物体の真正面に進み出て、紙垂を結んだ長さ五十センチほどの竹の採物とりものを両手に捧げて恭しく一礼すると、ゆるゆるとその場に端座した。
 神に奉納する儀礼に則り、採物が左右に細かく振られて紙垂が揺れる。やがて赤天狗は静寂を破り、低い唸り声を発した。
 
「アナメデタヤ、オガイゴサマ」
 
 続けて会衆がアナメデタヤオガイゴサマと声を揃える。さらに赤天狗が「オトコイリノギ、ツツガナクアラシメタマヘ」と祝詞を唱え、会衆もそれに倣った。
 能面を着けた女が、摺り足で音もなく赤天狗の右横に進み出てきた。女は白木の板の上に般若の面を載せて持っている。
 女から木の板を受け取った赤天狗は、般若面を手に取って立ち上がり、立像の前に進み出る。両手に般若面を捧げ持ち、白い布で覆われた頭部に取り付けた瞬間、突如蠟燭の火が消えてあたりは闇に包まれた。それを合図に会衆は一斉に立ち上がった。

 闇の中で狂騒が炸裂した。

 男も女も声を限りに「オガイゴサマ、アリガタヤ」と叫び、床が抜けんばかりに足を踏み鳴らして、思い思いの手振りで乱舞し始めた。脱ぎ捨てられた仮面が床の一カ所に積み重なり、法悦境に至った会衆に時折足蹴にされている。生霊である俺は茫然と立ち尽くしてその光景を見守った。

 無礼講が始まった。踊り回る男女は遂に着衣を脱ぎ捨て、最終的に至るべき乱交状態へと突入した。
 
 オガイゴサマが「御蚕様おかいこさま」の訛りであるのは容易に察せられる。つまりここに集った善男善女は、蚕を信仰する者たちであるようだ。そしてヒカリヶ丘市一帯は、近代日本の成立以前から養蚕が盛んだったことを俺は水際から渡された資料を読んで知っていた。とすると、あの白い布に隠されているのは蚕の擬人化された像なのだろうか。
 
っこ」
 
 突然背後から声を掛けられ、肝を潰して振り向くと、闇の中ではつ子が笑っていた。他の男女同様、猿の面を外し、浴衣も脱ぎ捨てて素裸になっている。「俺が見えるんですか」と問うたが、返事の代わりにむき出しの両腕が、霊体である俺の首に巻き付けられた。なぜか俺は抗うこともできず、彼女の顔へ引き寄せられていく。
 
「津川さんを殺したのはあなたですか」
大人おどなしくしてれえ。たんと可愛がってやるからよう」
「御蚕様とは何ですか」
 
 御蚕様オガイゴサマを讃える喧噪が最高潮に達する中、俺は生身の体同然に床へ引き倒され、はつ子にのしかかられるままとなった。俺はどこにいて、何をしているのか。なぜこうなったのかまったく理解できない。水際佳恵や財部豪介は今どうしているだろう? 彼女らに会いたいという思いは高まったが、その反面、自分がはるか遠くに離れてしまった事実を諦めとともに受け入れていて、不可解にもそれを「悪くない」と思っているのだ。

 この場の狂騒が、不思議な安堵を胸の奥底にもたらしていた。自分が今置かれている状況を危険だなどと感じなかった。

 そうだ。俺は今までずっと、後ろめたく感じてきたのだ。この場にこうして不可視の存在として現れ、御蚕様を讃え狂熱に身を任せる人々を冷然と高みから見下ろしている我が身の、途轍もない増上慢ぞうじょうまんを。
 彼ら彼女らに比べれば何一つ不自由のない環境に育ち、生の苦悩など聞きかじり程度ですべて分かったような顔をしている。そんな俺に、切実な信仰の何が分かるというのか。
 今こそ、傍観者の思い上がりと不遜から解き放たれ、ここにいる会衆と一つにならなければいけない。ただしそれは、口先で「御蚕様オガイゴサマ」と唱えるだけで叶えられるはずもない。心の底の底から、御蚕様に救いを求め、御蚕様の御利益を念じ讃えなければ無意味なのだ。そして俺にのしかかっている藤山はつ子に求められているならば、誠心誠意応えてやらねばならない。それも会衆の一人として。
 
「めんげなあ、おは」
「お前も可愛いよ、はつ子」
 
 行き場のない幽霊の俺を、彼女は可愛がってくれる。これぞまさに、垂迹すいじゃくたる御蚕様の大慈大悲。ありがたくも俺がここに存在するのはべて御蚕様のお蔭である。俺は力のない腕を彼女の背に回し、その唇を吸った。
 


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