悼むことの「痛み」について──党派性は「最強の免罪符」か?
一人の人間が死ぬと、一つの物語がその時点で終わる。続きはあり得ない。彼/彼女の死を境にして、その人が紡いできた物語は直ちに風化を始める。世界は死者を置き去りにし、あとは生者だけに共有される物語が途切れることなく更新されていく。現実がかようにも残酷だからこそ、残された者たちは、死者に対して厳粛な姿勢で臨まなければならない。これは人間として最低限の節度ではなかっただろうか。
節度を軽んじるようになると、人間は知的動物として確実に劣化を始める。昨今の政治家は、そうした節度を一顧だにしないことをいつから自らの特権とみなすようになったのか。あるいは最初からそうした節度とは無縁だったのか。
4月の衆院東京15区補欠選挙で国民民主党の公認候補として内定しながら、その後内定が取り消された高橋茉莉さんの死亡が9日報じられた。4日、自宅マンション敷地で倒れているのが見つかり、現場の状況から自殺とみられているという。
内定取り消しの理由について同党は「過去に法令違反の可能性がある行為があった」としつつも、具体的な内容は明らかにしていない。同党の玉木雄一郎代表は高橋さんの死が報じられて1時間もしないうちに、X(旧Twitter)に次のように投稿した。
「一般人の自殺をことさら報じる意義がどれだけあるのか」というが、ならば一般人の自殺を、自らのXアカウントで取り上げる理由はどこにあるのか? そして、高橋さんの死去を受けた投稿であるのは誰の目にも明らかである以上、「一般人」を強調して「節度ある報道」を求めた玉木氏の「節度」はどうなっていたのだろう?
無闇に故人を突き放す意図はなかったと、ここは善意に解釈しておこう。恐らく玉木氏の真意は、「一般人の自殺」なのだからニュースバリューは乏しく、遺族ら関係者の周辺を騒がせるに値しないというところにあったと思われる。しかし各報道機関は、東京15区公認候補擁立に絡む騒動の経緯を踏まえて、報じる価値があると判断したようだ。そして皮肉なことに、玉木氏の性急な投稿がこの自殺事案のニュースバリューを裏付けてしまった格好にもなっている。
高橋さんとは少なからぬ縁があるにもかかわらず、お悔やみの一言もなく見苦しい周章狼狽ぶりをさらすだけでは、批判が集中するのも無理はない。公人たる衆院議員にして野党代表ともなれば、批判を謙虚に受け止めて当然と思うのだが、玉木氏が取った行動は、上記投稿を削除し「お悔やみ」投稿に差し替えることだった。
たった3時間で高橋さんは急転直下「お悔やみ」を申し上げられる立場となったが、玉木氏は、当初の投稿を反省しているとはひと言も言っていない。彼は「こうした発信のあり方に対して、適切ではないなどのご指摘やご指導をいただきました」ことを理由に削除したと述べている。つまり、削除した行為はあくまでも、批判が集中したという情勢判断の結果であって、そこに投稿内容自体の是非をめぐる判断は1ミリも交えられていない。要するに「当初の投稿は不適切ではないと思うが、批判されたから削除した」と言っているだけなのだ。
不適切だと考えていないなら、なぜ削除したのか。単に火の粉を浴びたくなかったからか。このような振る舞いを示すことで、政治家としての信頼性が揺らぐとは考えなかったのか。
察するに玉木氏は、お悔やみに先立つ最初の投稿の根本的な問題点を党派的論争にすり替えるという、抗いがたい誘惑に屈したのではないか。「対立勢力から寄せられている批判は党派的利害に立った、いわばポジション的色彩の強いものであり、本件もそれに該当する。ここはひとまず鎮火を優先するのが賢明」。そうした計算が働いたように考えられる。
党派対立の図式を無理矢理当てはめれば、人間性の欠如、無定見、無節操など、普遍的であったはずの問題も相対化されてしまう。本来なら一笑に付されて終わりの見え透いた詭弁なのだが、玉木氏は「これで行ける」と考えたらしい。それはなぜなのか。
恐らく彼は、その場しのぎで誤魔化せる世の中が既に出来上がったという見方を、「お悔やみ」投稿の時点で寸毫も疑わなかったのではないか。しかし普遍的な倫理の問題も党派対立の範疇で相対化してしまえるなら、これは「最強の免罪符」という以外にない。
あらゆる批判を政争の一部として切り捨てることができるなら、煩わしい良心のやましさにも悩まされずに済む。これは悪魔の誘惑ではないだろうか。
後から後から押し寄せる政治腐敗の腐臭に慣らされるうち、こうした人間性の欠如、日和見の姿勢を、いまさら論うのも徒労感を覚える時世である。「政治家ならその程度の無節操は当たり前」と思うようになったのは、私たちがこの10年ほどの間にそのようなマインドへと飼い慣らされた結果なのだろう。
豚小屋の中で汚辱にまみれながら、「政治闘争の勝利は善悪を超越する」と悦に入っている豚のマインドにすっかり甘やかされたからこそ、玉木氏は自らを何ら省みることなく、脊髄反射に近い形で「節度ある報道を」と叫ぶことができた。だからこれは私たちの責任でもある。
「悼む」とは「痛む」ことである。玉木氏にはこの際、公認内定取り消しの経緯をも含めて、痛みを存分に味わっていただきたい。故人の冥福を祈りつつ、Yahooニュースに転載されたやっつけ仕事のスポーツ紙記事を下に引用する。心無いヤフコメの数々に辟易しながら違う種類の「痛み」を共有するのも、あるいはささやかな供養になるかもしれない。
※「いのちの電話」等の番号はあえて掲載しません。