小説 護符 005)志咲里【侍女体験】
〔005 本文〕
真夜中、蓮池志咲里は枕元に気配を感じて目を覚ました。
立ったまま自分を見下ろす二人の男が視界に入ったが、声を上げることも動くこともできなかった。
幼少の頃から直感は鋭いほうだという自覚はあったが、二十二年の人生の中で幽霊を見たのは初めてだ。
古代エジプト人の幽霊だと気が付いていても、恐怖心はそれほど湧き上がってこなかった。
興味のほうが先に立っていたのだ。
一人は三十歳前後と見られる、やたら、威厳のあるオーラを纏った男だ。
もう一人はその男より少し下がった所に控えていて、もう何年も前に笑顔など捨てたといった風情のある、厳しい顔付きをした坊主頭の老人だった。
「この娘か、メリネチェル。お前が、後の世から引き寄せたと言うのは」
オーラを放つ男はそう言って、ファラオの印である付け髭を触っている。
「おっしゃる通りです。トトメス様。素質を持った娘、しがらみのない娘となりますと、この界隈には見当たりませんでしたので。仕方無く」
「そうだろうな」
「私が、あれの存在に気付いておりましたら。こんな手間はかかりませんでしたのに。面目ございません」
「悔いるでない。今更、言っても仕方が無いことだ」
付け髭の男は後ろの男へ優しく言って、志咲里へ向き直った。
「しかしなかなか、逞しい魂の持ち主のようだ」
「引き寄せるのに、残りの持てる力を全て使いました」
「まあ、良い」
付け髭の男は笑い交じりで言うと、志咲里の額へ手を伸ばしてきた。
「私からも、力を授けよう」
触れられた男の掌は温かく、瞼を閉じると黄金に近いオレンジ色の光が見えた。
「期待しているぞ、シェリ」
そのまま眠ってしまったのかもしれない。
身体の硬直が解けたのを感じて、意識を手繰り寄せた志咲里は、跳ね起きてすぐに男達の姿を探した。
男達の姿は無かったが、黒い猫が尻尾を上げて部屋の入口から出て行くのが、ぼんやりと光って見えた。
猫がいなくなると、辺りには夜の静けさが広がるだけだった。
あれは、ファラオ?
付け髭もあったし、トトメス様と呼ばれていた。
トトメスと言えば、一世から四世までいらっしゃるファラオじゃないの!
その内、一世がハトシェプスト女王の父親で、二世が夫。
三世は現在、エジプトを女王と一緒に共同統治している。
志咲里はときめく気持ちを抑えられなかった。
「カマル、起きて。ねぇ、起きて」
隣りで寝ているカマルの身体を乱暴に揺すった。
カマルは全く動かなかった。
そもそも、カマルは睡眠など必要としないはずだ。
夜は省エネ目的で横になるだけだと、最初に説明を受けた。
不安を感じて、急に身体が寒くなった。
「カマル。どうしちゃったの?幽霊に電子回路を、どうにかされちゃった?」
霊のせいで電化製品が壊れるのは、未来ではちょくちょく聞く話だった。
志咲里は西暦二○七七年の未来から、タイムマシンで古代エジプトへ旅行に来ている。
今カマルに不具合を起こされたら、困るのは志咲里だ。
「何かありましたか?」
唐突にカマルが起き上がった。
暗闇に慣れてきた目が、ぼんやりとカマルの身体の形を捉えた。
「びっくりした。良かった。何とも無かったのね」
「何とも無かったとは?待ってください」
カマルは自分の内部システムへアクセスしているようだった。
「一時的に、CPUへの過負荷が起きたようです。回路が遮断され、システムが再起動したのですね。何がありました?志咲里様」
古代エジプト入りしてから一週間ほどが経ち、アテンド役の女性型アンドロイドにも慣れてきた。
クセの無い声で淡々と言葉を紡ぐカマルの話し方も、最初は人間味を感じられずに戸惑ったが、今では気にならなくなっている。
「ファラオの幽霊見ちゃった」
きゃはっ、と志咲里の口から笑いが漏れる。
「幽霊ですか。では、幽霊の波動が私の回路に影響を与えたようですね。志咲里様は霊媒体質でしたか?」
「そんなことは無いと思うけど。ちょっと。そこじゃないでしょ。ファラオよ、ファラオ!」
「いえ。この先も私の回路を脅かされては困ります。志咲里様が霊を引き寄せる体質かどうかは、私にとって重要な問題です」
「幽霊なんて、初めて見たから。きっと、大丈夫よ」
「そうでしたか」
「トトメス様と呼ばれていたわ」
「トトメスでしたら。現時点で他界しているのは、トトメス一世と二世になりますね」
「どっちかなぁ」
志咲里はうっとりとした表情で、さっき現れたファラオの顔を思い浮かべた。
そのまま、ごろんと横になる。
結構、愛嬌のある可愛い顔だったな。
何を話してたんだっけ?
期待しているって言われたような。
そうだ、私の額を触って光を出してた。
志咲里は自分の額に触れてみた。
何も変化は無さそうで、一先ず安心する。
古代エジプトへは、ハトシェプスト女王の侍女体験をしにやってきた。
ハトシェプスト女王は、黄金マスクで知られるツタンカーメン王よりも、百二十年ほど前にエジプトを統治していた女性だ。
旅行期間は新月の日から新月前日までの約一ヶ月間。
一緒に来た父母と兄とは別行動で、三人はもうすぐ始まるセド祭を見学する前に、テーベの都周辺の観光へ、別のアテンダントと一緒に周遊に行っている。
志咲里は街や建物を見るよりも、古代エジプト人の生活を体験するほうに興味を持ったのだ。
ハトシェプスト女王と対面した時の感動を思い出す。
女王は三十代後半くらいに見える少しふくよかな体型で、理性と穏やかさと威厳を兼ね備えた、これぞ女王といったオーラのある人物だった。
上質な亜麻でできたドレスも素敵だったし、ヘッドバンドとお揃いの腕輪も豪華で格好良かったな。
緑、赤、水色の鮮やかな石が使われていたけど、何ていう宝石なんだろ。
女王は見慣れない志咲里に気付くと、アイラインで強調された眼に宿った、落ち着きのある視線を向けながら、口角の上がった分厚い唇で柔らかく話しかけてきた。
「遠くからよく来てくれましたね。ここでは気楽に過ごしなさい」
カマルの要約によると、そんなことを言われたらしい。
志咲里はカマルの親戚で、遠くの里から行儀見習いを兼ねて侍女をしに来たことになっている。
カマルは何年も前からハトシェプスト女王の侍女として働きながら潜入していて、女王の信頼を得ているのだ。
女王は自分の側近の登用には身分に拘らず、仕事のできる者だけで無く、ただ話が合う者や一芸を持った者など、様々な者達を受け入れていた。
志咲里のように、未来から侍女体験をしに来る人々には好都合だった。
宮殿に寝泊まりする日々は窮屈かと覚悟していたが、思いの外自由に過ごせている。
掃除道具さえ手にしていれば、広く豪勢な宮殿内を自由に歩くこともできた。
「女王がこれほど開放的に過ごしていられる背景には、女王に危害を加えようと企てる者など存在しないという、確固たる安寧があるからのようです」
カマルが宮殿内を案内しながら語ってくれた。
「第十八王朝初代ファラオ、イアフメスが、長年エジプトを苦しめていた北のヒクソスを撃ち破り、南のクシュ王国を平定させてから。対外政策は軌道に乗り、今、エジプトは円熟期に入っています」
外国からの貿易品や貢物で、エジプトが豊かになっている様子が壁画にも描かれている。
「国内のほうは。現在の共同統治者である、継息子のトトメス三世は、国王の座をハトシェプストに任せ、自分は軍の司令官に収まっています」
女王の壁画の前で立ち止まると、カマルは鮮やかに配色された顔料にそっと触れた。
「後世では。トトメス三世が王権を奪われていたとして、女王を憎んでいるはずだったと、思われていた時期もあるようですが。女王と継息子との間に、反目し合っている様子は感じられません」
トトメス三世が自身の治世終盤で、女王のレリーフを削り、功績を消すことに力を注いだことは志咲里も知っていた。
「トトメス三世は、自ら女王を主張するハトシェプストに虐げられているのではありません。トトメス三世自身が、養母を女王へ祭り上げ、自身が軍人へ進む道を選びやすくしているように見えます。女王の死後、トトメス三世は軍事遠征を繰り返し、エジプトの領土を拡大していく訳ですが。それは、ハトシェプストが女王であったこの時期に培われた、人脈と軍人としての経験が活かされることになります」
トトメス三世も只者では無いのねと、志咲里は感心した。
「現在の状態は、ただ単に。ファラオになりたかったハトシェプストと、軍事が大好きなトトメス三世との、利害が一致しているだけもしれませんけどね」
だけどと、カマルは続けた。
「トトメス三世は生まれて間も無く生母を亡くしています。ハトシェプストが彼を養育しました。これは、私の受けた印象ですが。二人の間には、本物の親子の情が芽生えていて、お互いがお互いの望みを尊重しているのではないでしょうか。トトメス三世は、養母だったハトシェプストを本当の母のように慕っているし 。ハトシェプストもまた、トトメス三世のことを大事な跡取りとして扱っている」
「それが、一番素敵な話ね」
志咲里の言葉に、カマルが珍しく少しだけ微笑んだ。
笑みを浮かべると、年頃の綺麗なお姉さんに見えた。
「夜明けまで、あと二時間ほどです。もう一度、お休みください」
志咲里は隣りで横になっているカマルのシルエットを朧気に捉えた。
ファラオの幽霊を見たせいか、なかなか寝付けそうに無い。
カマルは、寂しくないのかしら?
時折、こうして旅行客の相手をしていれば気が紛れるのかな。
そもそも彼女(?)、アンドロイドに寂しいとか気が紛れるとか、そんな感情があるのかな?
幽霊の話を聞いても怖がりもせず、淡々と状況を確認するだけの彼女を、志咲里は改めて遠い存在に感じた。
翌朝から、志咲里はカマルの指導の下で、他の侍女数人とセド祭りで使う造花をひたすら作る作業に取りかかった。
出来映えの良い物は神を祭る祠堂に飾り、それなりの物は祭りを行う広場や沿道に設えると説明を受けた。
セド祭りは王位更新を祝う祭りで、ファラオの即位三十年目を記念して開かれる。
カマルはしばらくして他の仕事で場を離れていった。
カマルがいなくなるとすぐに他の侍女達のお喋りが始まった。
「トトメス二世様が崩御されてから数えたら、今年はまだ十六年目じゃないの?姉さん」
志咲里は危うく、運んできたパピルスの束を落とすところだった。
侍女達の会話の内容が理解できることに驚愕したのだ。
片言で分かるレベルでは無く、ネイティブのように、いきなり言葉が頭に入ってくる。
「トトメス二世様が亡くなられた後に、即位なさったのはトトメス三世様だから」
答えた侍女を姉さんと呼んだ娘は、姉の含みのある言い方では理解できなかったようだ。
「ハトシェプスト様は、夫のトトメス二世様が亡くなった後。まだ幼少だったトトメス三世様の摂政になって。しばらくしてから、自ら女王を名乗っていらっしゃるでしょ」
「女王様が、ご自分の即位が正当だと示したいのは、何となく分かるけど。でもどうして今年なの?」
「父王のトトメス一世様が、お亡くなりになった年から数え上げていらっしゃるのよ。父王様が生前に、女王様を次のファラオに指名してたって、女王様はおっしゃってるじゃない」
「あ、そっか。トトメス二世様や三世様の治世を認めたら、女王様にとっては都合が悪いのね」
「そういうこと。センムウト様の入れ知恵でしょうけど。偉くなる人は考えることが違うわね」
「そりゃあ。当代一の出世頭ですもの。センムウト様は庶民の出と言うことを、今ではむしろ、誇りにしていらっしゃるくらいじゃない」
妹のほうが、ふと志咲里に視線を向けた。
「どうかなさったの?えっと、シェリさん?」
いぶかしい顔で、二人を凝視している志咲里に気付いて声をかけてきたのだ。
「メナト。話しかけても無駄よ。この人、言葉が分からないそうよ。ものすごく、遠方からやってきたって。カマルさんが言ってたじゃない」
志咲里は、そんなことは無い、あなた達の話している内容がわかると言おうとしたが、思っていることを言葉にするのは難しかった。
頭に浮かんでいる音を声にしようとしても、日本語の母音を日常的に使ってきた身にとっては、どのように口を動かせば良いのか分からなかった。
「んね。ぅお、とぇ」
志咲里の発した音は単語にすらなっていなかった。
「もうすぐ、カマルさんが戻ってくるから。それまで待って」
哀れむように、メナトと呼ばれた妹に言われて、志咲里は黙って俯くしかなかった。
しかし、志咲里の心は張り裂けそうなほどに踊っていた。
これは、あのトトメスの力だわ!
そうよ、それしか考えられない。
他の侍女達の会話にも耳を澄ましてみる。
「あら、やだ。変な所へくっつけちゃった」
「何やってるの。ふふっ。それはナイル川行きね」
「ねえ。知ってる?あの部屋。また出たらしいのよ」
「いやだ。私、絶対あの部屋には入らないわ」
自分の顔がニヤけていくのが止められなかった。
分かる、分かるわ。
トトメス一世、もしくは二世様、ありがとうございまーす。
語尾にハートマークを付ける勢いで志咲里は感謝していた。
〔006へ続く〕
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