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雑記 都知事選後

東京都知事選(2024年)が終わりました。
結果としては小池氏の当選となりましたが、共同通信社の出口調査では、年代別では、18~29歳の41%が石丸氏に投票、無党派層の37%が石丸氏に投票していたようです。
その他、NHKやTBSなどの調査からも若年層では石丸氏、高齢になるほど小池氏への投票が多くなっているようです。
まだ世代別の投票率、投票数のデータが発表されていないようですので、確実なことは言えませんが、投票前のアンケートなどを見ると例年以上に若年層も興味を持っており、また、投票数は近年中では最多の60%を超えているということで、若い世代の投票数も上がったのではないかと推測します。

さて、ここで話したいことは小池氏の当選の是非ではなく、若者の投票に関してです。
上記のとおり、私の推測に基づく点は申し訳ないのですが、仮に若年層の投票数が増加していなかったとしても大きな変わりはありませんのでお話させていただきます。

選挙があると若年層の投票数増加が課題に挙げられます。長い視点で見れば若年層の投票率の向上は不可欠であることに異論はありません。
今回の結果を「結局高齢者層の投票する小池氏が当選するのだから若者は投票に行っても意味がない」と捉えるか、「当初予想された以上に石丸氏が健闘したのは若年層の投票が反映された結果だ」と捉えるのか、今後の若年層への投票推進のためには、この点を議論することが重要ではないかと思います。この結果をもって、若年層の投票がどの程度インパクトのあるものなのか。自分たちの投票が市政や、都政、県政、国政に影響があるのだと感じることができれば、若年層がより投票するようになると考えられます。一方で、結局高齢者層の応援する候補が当選するのであれば若者が選挙に行っても無駄ではないかと感じれば、若者の投票は滞ることになるでしょう。
今回の結果は「結局高齢者層の投票する小池氏が当選するのだから若者は投票に行っても意味がない」のでしょうか、あるいは「当初予想された以上に石丸氏が健闘したのは若年層の投票が反映された結果」なのでしょうか。その結果を若年層、高齢者、政治家はそれぞれどのように感じているのでしょうか。

ところで、石丸氏の落選後のインタビュー対応についての是非が話題となっています。一方では石丸氏の態度が高圧的であるという見方、もう一方ではインタビュアーの質問力への疑問という見方で賛否が分かれているように見えます。この賛否について、個人的には「なぜ」そうなったのかという視点を欠いている意見が多くあるように感じますが、本題ではないのでここでは触れずにおきます。

大事なことは、選挙を終えたこのタイミングで論じるべきことは、落選者の人格なのかということです。仮にこれが当選した小池氏だった場合、これから都政を担う長として適切なのかという議論があることは理解できなくはないです。しかし、落選した石丸氏は、言わば無職です。これからのことはわかりませんが、現状では特に何をするというわけでもない人物の人格を論じるよりも優先度の高い話は多いのではないかと思います。

これはあくまでも穿った見方をすればという前置きの上で書かせていただきますが、今回、選挙の序盤において、テレビの多くは小池氏と蓮舫氏の一騎打ちであると扱い、この2者が”特別”多く語られました。結果として、蓮舫氏は石丸氏の得票数を下回りました。これは石丸氏がテレビ側の予測を大きく超えたという見方も出来ますし、テレビ側が読みを誤ったとも言えます。ここで大して重要でもない石丸氏の態度について取り上げるというのは、この読みを外したテレビが目線を反らすために行っているように見えないことはないのではないでしょうか。とはいえ、これは非常に穿った見方ですので本当のことではないかと思います。

最後に余談ではありますが、近年は政治家やスポーツ選手、芸能人などに誠実な人柄が求められるようです。極端に言えば、能力はなくても人柄が良ければ良いようです。
私はこの風潮は嫌いです。もちろん人柄が良いことに越したことはないでしょう。しかし、「誠実な人柄」というのもあくまで個人の特徴、特性であり、全ての人がその気質を備えているわけではありません。人には向き不向きがあるし、生まれ持った才能や気質があります。スポーツ選手で言えば、何よりもそのスポーツでの能力が評価されるべきであろうと思います。芸能人であれば、その芸への評価が優先されるべきではないでしょうか。
もちろん、最低限の人格や犯罪をしないという前提はありますが、そのうえで性格が悪いからといって俳優の活躍の場を奪うとか、そうする必要はないのではないかと思うのです。かつての名優や現在のトップアスリートなど、性格が悪くても他者より成果を出す人間はいます。むしろ、そこでしか輝けない人もいます。そうした人の機会を奪うまではしなくてもいいのではないかということです。自身の評価基準、好き嫌いの要因に人柄を考慮することは自由ですが、社会的に断罪する必要まではないだろうと思うのです。
それに「誠実な人柄」というのも一種の才能であったり、その人の努力で作られたものだと思います。すべての人が人格者であるならば、努力や誠実さは評価のされない社会になってしまいます。
愚直さは、それが稀だから美しいのであって、稀でなくなればただ効率の悪さが残るのです。私は愚直さは好きですが、それが稀有であるからこそ評価されるのであり、全ての人が誠実で愚直であれば、それはいい社会なのでしょうが、一方で、誠実で愚直であることの価値はなくなります。みんながいい人であれば安全ですが面白みに欠けます。往々にして刺激の強いスパイスがあるからこそ、素材の優しい甘みに気づくものです。


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