忘れさった「特別」。岸本葉子さんの著書を読んで気づいたこと
昔はわたしたちの身の回りにあった「特別」をわすれてしまった。
岸本葉子さん著「ちょっと古びたものが好き」を読んで、長年ひそかにクラシックなアイテムに憧れを持っていた私は、見事に彼女の繊細で丁寧な暮らしの世界に引き込まれてしまった。
著書は、千葉県の海の近くにある、私の地元の図書館で偶然手に取った本だ。
白の余白のなかに、アンティーク調のティーカップの写真があるだけのシンプルな本。
だが、文字のフォント、並び方、写真、どれも一目で気に入り、すぐに司書さんの待つカウンターに本を持ち込んだ。
岸本さんの言葉たちは、骨董品で出会うティーカップや食器達の美しい魅力を伝えるだけでなく、彼らの持ち主であっただろう人たちの歴史や、見てきた風景も、やさしい言葉と繊細な視点で拾っていく。
特に印象的だったのは、彼女の昔の「特別」に関しての言及だ。
ノリタケというブランド食器を紹介する場面。岸本さんの昔の思い出を語るこの一文が、とてもすきなのだ。
岸本さんの文章の中で、昔感じていた子供ながらの「特別」を思い出した。
わたしは二人兄弟で、上の兄とは大分年が離れていた。
当時小学校にあがる前だったと思う。
兄の家庭訪問で先生がやってくるということで、母に「私も出る!出る!」と無理を言って同席させてもらったのだ。
その時に、母が先生に出した紅茶のティーカップが、私が見たことのない、上品なデザインをした食器で、私は子供ながらに「特別」なおもてなし、を実感し、背筋がシャンとしたことを覚えている。
先生が帰ってからの数日は、先生が飲んでいたティーカップで、私もお茶が飲みたかったのだけれど、残念なことに母が私の手の届かない場所に食器をしまってしまった。
自分は使ってはだめ、ということがより特別に思えたのだが、岸本さんのエッセイを読むまですっかり忘れていた。
さっそく実家に戻り、ティーカップを探してみたら、今は、食器棚のなかに私の手の届く場所にひっそりとおいてあった。
昔は使えなかった、ティーカップ。
さっそく、やかんに火をかけ、お気に入りの紅茶をそそいでみる。
味は、なんてことない、いつもの紅茶だった。
けど、自分の佇まいが、違うのだ。
いつもと違う、オシャレなティーカップでお気に入りのお茶を飲む。それだけで、いつもの日常と変わらない日々が、とたんにきらきらと、暮らしが変わった気がしてくるのだから、不思議だ。
大人になった私は、1人暮らしをはじめ、一通り家具も食器もそろえた。
ティーカップと、ティーポットだって持っている。amazonで買ったのだ。
けど、昔は使えなかった食器があることも忘れていて、今の私は当たり前のように何も考えず、必要だから買う。
私のしてきた買い物は、ただ意味のない消費だったのだろうか…?
そんなことを考えたら、10秒程で手に入ったティーポットたちも、消費のために大量生産されたロボットのように思えて、なんだかかなしくなってしまった。
今はこんなにも自由なのに。
ああ…、少し「特別」を忘れていたかもしれない。
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