弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い
わたしは、なにかを遮られて、自由にいられない人、自分の力を発揮できない人、手足が思うように動かない人、一人で移動できない人、心の内を吐露できない人、総合して、「弱い人」と表現するされるけど、その言い方は便宜上で、不自由と表現するのも、違う気がするから、話が進まないけど強弱じゃない気がする… ともかく弱い立場の人。
きっと、その人達は困っている事が多いだろう。
人との対話をおそれる人、ささいな風邪が命取りになる人、生きていたくないと願い続ける人、なにもかも壊れ物のようにもろい人。
その人達に対して、優しい人であるのだろうか、と考えている一日だった。
いや、わたしはいつもそんな事を考え続けているのだ。
(だからめんどくさい奴)
きっと、わたしは自分の思いを作品に込めることで、自分の家族の問題や自分自身の弱さ(字義通り)を乗り越えていくのだろうと思う。
乗り越えるというと、おや、たいそうなものじゃないか。
見つめ直す行為を通して、勝手に時が過ぎていくのを、だまって受け入れて行くのだろうと思う。
たとえば、わたしの職場には身体的にも精神的にも、医療の力を借りて生きている人がたくさんいる。
病院というのはそういう機能を果たす場所だからだ。
精神科だから、ほかの科と違う。独特なところもたくさんあるだろう。
病院に勤めたことは、今までなかった。 職場で働き始めて、十年以上が過ぎている。
困っている人をたくさんみたり、聞いたりする。実際に話すこともあるし、働き手の人事に係わったりするから、わたしも間接的に患者さんを支えている事になる。それは、普段気がつかないけれど、自分の職業としての誇りとして、思い出さなければ、仕事がきつい。必要に迫られて思い出す。
困っている人、弱っている人、に出会ったとき。
わたしはいったいどうしたら良いのだろうか、と思うのだ。
現場の人間でもないから、なにもできない。
無力だと思う。
では、なにか資格を取って、現場の力になれるように努力すればよいのだろうか。
様々な人がいる。ただそこにいるから、助けたいと思うのも、傲慢な気がする。
それは生活困窮している人達への、ボランティア活動の時も思ったことだった。
去年の暮れか、今年になってからだったか。
とある市内の福祉施設に、患者さんの退院が決まった。その地域は、わたしが小学生の頃よく遊んでいた思い出の地域だったから、そのころはまだ形のなかった施設の外観などが気になり、ホームページを調べた。
職業柄、と言ってもわたしはソーシャルワーカーの資格を持っているわけじゃないので、業務外のサボりと言ったらそれまでだけど、ホームページをざーっと見ていくうちに、ボランティア募集と書かれているところを見つけた。
家族の老いや、介護という職業に抵抗があると思う自分を変えたいなと思っていたのもあって、ボランティアならばできるかもしれない。
と考えた。
それから、ずいぶん時間がたってしまい、その間大きな試練や日常の雑多に追われていた。
今日は、その施設のボランティアのオリエンテーションなのだ。
昨日、意を決して電話をした。担当者の男性は感じがよく、土曜日なのに時間を作ってくれるといってくれた。
なぜながながと、ここに至る経緯を書いたかというと、わたしは、現在家族のひとりにつよいわだかまりをもっているからだった。
行動も言動も、気に入らない。
なんとなく気に入らないのではなく、芯の通った気に入らないなのだ。
笑い声や、一人ごちて楽しそうにしているのも気味が悪い辛い。
家族のこと、うちに抱えている苦悩。わかったつもりになったり、わからないと匙を投げたり。理解してあなたを支えていくよ、大丈夫だからね。と今までやってきた。全然大丈夫じゃなかったんだ!
証左に、こないだの、皿割・ベッド破壊事件。その後遺症が、わたしにも家族にもきっと、血脈の様に流れ続けている。
家族に対して、わだかまることは苦しい。わだかまり続ける事を、私の育った家族に対しても長い間現在も続いているから苦しみは重々承知だ。
どうやって相手と対峙すればいいか。どうやって、食事をとるか。おやすみも、おはようも、言い方を忘れる。
大好きと抱きしめることを、からだが拒む。気持ちだけがおきざりになる。
相手の行動に、過剰反応せず、おおらかに構えられたらどんなに楽なのか。相手にとってもそれはそうだ。
わたしは優しくないのだ。家族も弱いのだ。そして、わたしもどうやら弱いらしい。
弱い弱い弱い。弱い弱い弱い。
その弱さを克服しなければ、わたしは強くなれない。弱くてもしなやかならば。強くても思いやりがあれば。
言葉は狡猾で、わたしはいつも、ひとりでに、だまされてしまう。
だから、弱さとは何かといつも考える。弱いとされている人に、弱いわたしは、強さの皮を被り、借り物の鎧をまとう。
強い人とはどんな人なんだろうか。弱いものを笑わない人なんだろうか。
結論などださなくても良いだろう。
ボランティアは、身体的な介助をおそらくともなわない、身の回りのお世話になるとホームページには記されていた。本の読み聞かせ、というのもあった。それなら、わたしも嬉しい。一時間近くの道のりも、わたしにとっては、散歩の範囲で、今日の札幌は晴れで、きっと秋のにおいが、そこ、かしこ、気持ちがいいのだろうな、きっと。
家族のひとりは、学校の用事で外出予定。ひとりを残していくことに、罪悪感と哀れみと、なんとかしなければという焦燥と、一人で何でも好きに出来ていいねという、嫌みったらしい気持ちがある。
わたしは、とにかく、書くしかないのだった。生きるしかないのだから、書き続けるしかないだろう。
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