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豚角煮定食の話

 私が初めて豚の角煮を食べたのはいつだっただろうか。そうだ。あれは小学校に入学して間もない頃、家族に連れられて沖縄に旅行に行った時だった。
 今思えばあれは豚の角煮ではなく、正しくはラフテーと呼ばれる料理だったのだろうと思う。ともかく私はその料理に魅了された。舌を包む絹のような脂身に舌鼓を打ったものである。その記憶は私の中で、まるで琥珀に閉じ込められた永遠の瞬間のようにいつまでも鮮明な姿をしたままであった。
 大学に入学し、一人暮らしを始めた私は持て余した時間を角煮作りに使うことも何度かあった。近所のスーパーで豚バラ肉のブロックを買ってきては朝から1日かけて煮込む。その間の時間は小説を読んだり、音楽を聞いたりしていた。思い返してみれば、そんな暇を持て余していた時間というものは贅沢なものだったのかもしれない。

 それから暫くの時間を要し、私は会社に勤め、仕事に追われる毎日を過ごしていた。それはまるで止まることのない時計の針に囚われたかのようで。一日の始まりは、冷たいシャワーが私を叩き起こし、終わりなきタスクの波が押し寄せる。デスクに座れば、無数のメールが画面に溢れている。昼食の時間も、わずかな休息に過ぎず、頭の中では次のタスクが次々と浮かび上がる。夕方が近づく頃には、既に疲労が心身を覆い尽くしている。やがて夜が訪れると、暗闇の中で一日の重みが一層鮮明に感じられる。ベッドに横たわり、明日も同じ戦いが待っていることを思いながら、重たい瞼を閉じる。夢の中でさえ、仕事の影は追いかけてくる。
 そんな過酷な日常の中で、私の心の支えになっていたのは大学時代から交際している恋人の存在だった。彼女の存在が、私の辟易とする日常にとって唯一の安らぎであった。
 しかし、私たちの関係もまた、時の流れに飲み込まれてしまった。付き合ってから3年の節目を目前に控えたある日、彼女は突然別れを告げた。仕事に追われる日々の中で、彼女に割ける時間も少しずつ減ってしまっていた自覚はあった。きっとそれが寂しさを積み重ねさせてしまっていたのだろうと思う。それでも彼女の瞳に映る悲しみと決意は、私にとって信じたくない現実であった。

 彼女と別れた日の夜、私は絶望の淵に立たされ、飲酒という逃げ道を選んだ。アルコールの熱が喉を通り、心の痛みを一時的に麻痺させたかに思えたが、それも束の間の慰めでしかなかった。酔い潰れた私は、深夜の駅のベンチで眠りに落ち、時の感覚を失っていた。
 突然の揺れと硬い声で目を覚ますと、見知らぬ駅員の顔が目の前にあった。彼の厳しい表情に、私は現実に引き戻された。財布がなくなっていることに気づいたとき、深い虚無感と自己嫌悪が一層強く押し寄せた。記憶は無いが最寄りの駅までは帰ってきていたことは幸いだった。それだけで数刻前の自分を肯定する気には決してなれなかったが。失意の中、歩いて家へ帰ることを決意し、夏の訪れを感じるような少し蒸し暑い夜風に身を任せて、孤独な道を進んだ。少しずつ上がり始めている気温に過去の自分に思いを馳せる。入社して間もない頃は仕事への意欲も人並みに溢れていたはずなのに、いつしかその熱意も春先のまだ肌寒い風に吹き飛ばされてしまっていたようだ。
 私の失意を意に介さず、都会の街は深夜でも人通りと車の往来が止むことはなく、長らく帰っていない故郷の田園風景を懐かしく感じさせた。
 そんな春風に乗ってふと、美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。甘辛い香りが、空腹の私を誘うように漂ってくる。その香りを辿って行くと、住宅街の一角に居酒屋を見つけた。初めて見るお店だった。そっと窓から店内を覗いて見ると閉め作業中の光景が目に入った。それでも店内から漏れる温かな光と匂いに引き寄せられ、私は思わずその店に足を踏み入れた。
 店に足を踏み入れると、仏頂面の青年と目が合った。彼は私と同じ歳か少し下くらいだろうか、精悍な顔立ちで私のことを引きつった表情で睨みつけていた。まるで私が上司に雑務を押し付けられた時の表情のようであった。
「何?もう閉店時間なんですけど。」
「そうですよね。すみません。」
「何か飲みたいなら、今から2時間ほど待ってくれたら晩酌に一杯くらい付き合ってやるけど。無理でしょ?ほら、早く帰った帰った。」
「2時間?何の時間ですか?」
「うちのお店昼間は定食屋やってんの。その看板メニューの豚の角煮の仕込みだよ。下茹では終わったから、後はタレにつけて煮込むの。なに?待つ気?」
 私が感じた甘辛い香りの意外な正体に、私は小さな運命を感じさせられた。
「それ、どうにか食べさせてもらえませんか?」
 私の言葉を聞いて店主はため息をついた。
「ちゃんとお金は払ってもらうからな。」
 その言葉を聞いて私は自分が財布を無くしてしまっているどうしようもないやつであったことを思い出した。
「その、今持ち合わせがなくて。明日必ず返しに来るのでだめですか?」
 店主は酷く呆れた顔をした後、もう一度深くため息をついた。
「じゃあせめて2時間明日の仕込みの手伝いをしてくれ。もうそれでいいから。」
 そう言って店主は私を厨房の方へと連れて行った。厨房ではとても大きな鍋が豚バラ肉をぐつぐつと煮込んでいた。深い茶色をしたタレが小さな気泡を沸々とさせながら豚バラ肉を包んでいた。
「これくらいの沸騰加減を維持してくれ。火加減はそこでいじれるから。」
 私の久方ぶりの豚角煮作りが幕を開けた。

 それは長らく忘れていた時間であった。沸騰加減が一定になるように眺めながらただすぎて行く時の流れに身を任せる。時折店主から他愛もない話を振られてはそれに答える。ゆったりとした時間が厨房には流れていて、それは形容するのであれば、とても豊かな時間だった。

 タイマーの音が角煮の完成を告げていた。店主は大きな豚バラの塊をぶつ切りにして、ご飯の上に乗せて、付け合わせの漬物と味噌汁と共にお盆に乗せて私の前に差し出した。
 角煮のその堂々たる姿に一つの感動を覚えた。料理を前に一度手を合わせ、私はその豊かな時間の産物を口に運んだ。一口食べた瞬間、その味は私の心に深く染み渡った。豚の角煮は、柔らかく、甘辛いタレが絶妙に絡まり、口の中でほろほろと崩れる肉の感触は、温もりと安らぎをもたらし、孤独な夜に一筋の光を見出すような心地よさだった。
 私の隣に座った店主は、無言で食べ続ける私を眺めながら缶ビールを開けていた。プシュという爽快な音が静かな店内に響く。店主はその缶ビールを宙に掲げ、誰もいない厨房に向けて小さく乾杯をしていた。

 次の日の朝は昼過ぎに目が覚めた。昨日家に着いたときにはもう午前四時を回っていたから仕方がない。初めて無断で会社を休んだ気がする。上司からの大量の不在着信を目にして、妙に気分が良かった。
 着替えてから、代理の財布にお金を入れて昨日の居酒屋へと向かった。
 半日ぶりに同じお店の暖簾をくぐると繁盛している定食屋がそこにはあった。店員に声をかける。
「昨晩、特別に豚角煮定食をいただいた者なのですが、諸事情でお金を払えていなかったため、払いにきました。」
「あー、もしかして吉岡くんかな?仏頂面の」
「はい。その方です。」
「でも彼からそんな話聞いてないから、もしかしたら代わりに払ってくれてたのかも」
「それは申し訳ないです。お金を返したいのですが、今日彼は出勤されますか?」
 私の質問に店員さんは笑顔で答えた。
「彼は昨日が最後の出勤日だったの。」

 私は昨日と同じ席に座って豚角煮定食と生ビールを注文した。
 机に並べられた豚角煮定食を前に、コップにとくとくとビールを注ぐ。泡が溢れそうなコップを宙に掲げ、私は賑やかな厨房に向けて小さく乾杯をした。

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