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香月の〈文学研究〉体験記

香月の大学時代の研究内容は?

香月は、大学生のときに英文学を専攻していた。
英文学研究にもジャンルは様々ある。
その中で、香月が最も関心を持っていたのは、作品を「読み解く」ということだ。
この場合の「読む」とは単に字面をなぞるだけではない。
「味読」、すなわち、味わって読むということだ。

文学作品を「味読」するとは?

作品には「あらすじ」がある。
これを理解して人に説明できるレベルは「単に読んだ」という状態だ。

一方、「味読」はもっと深い意味で読んだことを言う。
作品は、文字が並んでそれが芸術になったものだが、1つの単語たちは、単一の意味を持った言葉であるとは限らない。
多くの言葉は、人類の永い歴史の中で、複数の意味を付与されてきた。
読者は、言葉の意味をなんとなく理解し、それで作品を理解したと思う。
しかし、単語たちが持つ複数の意味やイメージ、作品内でのそれらの配置、特に反復により、小説は第一印象とは異なる像を見せることがある。
ここまで想いを馳せて小説や作品を味わうことを「味読」というのだ。

「味読」と「誤読」の違いは?

「味読」は、作品解釈の多様性を広げる。
【味読】VS【誤読】の関係は、【正解】VS【誤解】の二項対立とは異なる。
複数の解釈が同時に成り立つ可能性がある。
それらは相容れないが、どちらも成り立つ。
むしろ、それによって、作品が立体的な像として理解されうる。

矛盾をはらんだ作品こそ「読みがい」があるといえる。
それらは共感を持って、他者に支持されうる。
ただ共感だけで支持されるわけではない。
そこにロジックと常識の上に成り立っているからこそ、支持されるのである。
「誤読」とは、共感が難しい、どう理解してよいか分からないような像である。
哲学者プラトンの言うところの、【イデア】VS【アナムネーシス】の関係も、【作品】と【解釈】の関係に相似しているのかもしれない。

香月の「味読」体験とは?

香月が大学時代に関心を持っていたのは、カズオ・イシグロだ。
イシグロは2017年にノーベル文学賞を受賞した、日系イギリス人作家だ。
イシグロは寡作で、長編小説は10作品にも満たないが、どれも味わい深い作品だ。
香月は、イシグロ最大のヒット作『わたしを離さないで』の作品の構築性に興味を持った。

『わたしを離さないで』〈カタルシス〉への祈り

『わたしを離さないで』の【1つ目】の物語とは?

『わたしを離さないで』はディストピア(絶望)を描いた悲劇的作品だとされている。
1990年代の架空のイギリスを舞台にしており、そこに住む人々は、病気による死を克服しようとしていた。
しかし、それはクローン人間を作る世界であり、人々はクローンが一定の年齢に達すると、臓器を奪う世界であったのである。

『わたしを離さないで』は、あるクローン人間の女性、キャシーの言葉で語られる。
キャシーは、その一生を終えようとしており、これから臓器提供に向かう年齢に達した時点で語り始める。
キャシーの30年弱の人生の半分は、想いを寄せる恋人トミーとの恋愛と、臓器提供を先延ばしにしてなんとか延命しようとすることに費やされた人生だった。

キャシーは、トミーとの真実との愛を証明することが、臓器提供による死を猶予される条件だと考え、そのために必死に行動する。
しかし、物語の最後に、そのような救済措置は最初からなかったことを知る。
キャシーとトミーは、その事実を知ると恋人関係を解消し、それぞれの残りの生と死を選ぶ。

『わたしを離さないで』の【2つ目】の物語とは?

【1つ目】の物語、つまり、作品のあらすじが示すように、『わたしを離さないで』に描かれる世界は救いがないように思われる。

しかし、救いのない世界にも救いは表現されている。
そのことを説明するには、「イシグロの生い立ち」と「作品内のディテール」に目を向けなければならない。

イシグロの生い立ちとは?

英文学作家であるのに、カズオ・イシグロ、と日本的に名前に驚いた人もいるだろう。
彼は戦後まもない1954年に長崎で生まれたのだが、父親の仕事の都合で、5歳のときに、イギリスに移住し、そのまま帰化した日系イギリス人なのだ。
彼の処女作は『日の名残り』といい、日本の長崎を舞台にした作品である。
イシグロの作品の特徴として、ノスタルジックな雰囲気と子供時代のトラウマ的出来事が繰り返されている。
また、イシグロの作品には「海」や「川」などの水が繰り返し登場する。
イシグロが脚本した『上海の公爵夫人』という映画や5作目の小説『わたしたちが孤児だったころ』では、主人公が海を渡って移動するというモチーフが表れるし、『日の名残り』では泥だらけの川が街を二分していて、その中で作中の重要人物である女児が、泥だらけかつ血にまみれて、発見される。
このように、イシグロ作品の中で水は重要なモチーフとなっている。

『わたしを離さないで』のディテールとは?

『わたしを離さないで』においても、水や泥は繰り返し重要な場面で登場する。

クローンの描かれ方は?

だが、先に説明したいのは、作品内におけるクローンの描かれ方である。
『わたしを離さないで』を読み始めた読者で、最初から語り手であるキャシーがクローン人間であると気づく者は少ないかもしれない。
それほど、作中で描かれるクローン人間は、人間と近しく、見分けがつきづらいのだ。
しかし、読者は読み進めて、キャシーの考え方や置かれた環境を知るにつれて、クローンの実情を知ることになる。

『わたしを離さないで』の構図

クローンはその人生の最後に、臓器を身体の内部から取り出されて、人間へと提供することになる。
この構図、すなわち
[ある空間]→〈内部にあったもの〉→[別の空間]・・・(※)
元々ある空間内にあったものが、別の空間へと移される、というモチーフは作品中で繰り返し描かれている。
例えば、『わたしを離さないで』という小説のタイトルは、作品中に登場する曲のタイトルでもあるのだが、この曲が収録されたカセットテープが、カセットの箱からオーディオ機器に移される、ことと対応している。
また他には、臓器提供猶予による救済が無いことをしった、キャシーの恋人トミーは、車から飛び出し、泥だらけになりながら、叫ぶ。
ここでも叫んだ声がキャシーの耳に入り、(※)が反復されていることが分かるだろう。

内部から外に出すことの困難

クローン人間は臓器提供を3回ほど繰り返して死ぬ。
1度目、2度目の臓器提供を繰り返すうち、クローンの身体は傷つき、生活が難しくなっていく。
そのため、臓器提供を開始していないクローンが「介護人」となって世話をする制度がある。
キャシーはトミーの介護人になるが、トミーは臓器提供を繰り返して、排泄が難しくなっている。

「内部から外に出す」という点において、臓器も排泄物もモチーフとしては同一に捉えることができる。
どちらも自分で取り出すことは出来ず、他者の介入によって、外部に取り出される。
ここから、何を読み取ることができるだろうか?
「自分ではどうにもならない」外に出さなければならないものやことを他人の力を借りて、なんとかする必要が生じている。

『わたしを離さないで』で描かれる「泥」と「水」

トミーは、臓器提供の猶予がないことを知って泥だらけになりながら、叫ぶ。しかし、トミーは泥だらけであることにキャシーから指摘されるまで気づかない。
このあと二人は帰宅する。
その後まもなく、トミーはキャシーとの恋愛関係を解消する。
最後にトミーはキャシーに幼少期のエピソードを語る。
トミーは水の中でバシャバシャと駆け回る空想をすることが好きなのだそうだ。

作品冒頭部でも、トミーは癇癪を起こし、叫んでいる場面がある。
この場面でもトミーは泥だらけになり、お気に入りの自分の服を汚してしまう。
そのことにキャシーだけが気づき、トミーに指摘する。
トミーは服を洗濯してもらう、キャシーにお礼を言う。

先程の場面は、この作品冒頭部の反復になっており、重ね合わせて考えると、トミーは泥に自力で気づけず、その泥を落とすことと、水による浄化がセットになっている。

このことから、臓器、排泄物、泥の3つがセットになっていて、これらを他人の力を借りて無くすことが「浄化」である、といえる。

つまり、『わたしを離さないで』を通して得られる示唆は、クローンは臓器をとても大切にしていて、それは生きるためであるが、一方で、臓器には汚泥のように離れないトラウマ的な心のキズのイメージもあり、それを他者の力で「外に出す」ことで、浄化していく作業も同時にあらわしているのである。これには当然、命を奪われるような痛みを伴うが、それを必要としているとも、見ることができるのである。
その証拠に臓器提供を開始して、死を迎えようとしているクローンたちは、過去にけじめをつけて、爽やかな幸福感を得ている。

キャシーは人生における様々なことを先延ばしにするキャラクターである。しかし、スタートしてしまえば、スタート前とは違った心地がするのかもしれない。


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