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頭の固い香月が自己受容するまで

頭の固さと自己開示

香月は、どちらかといえば、頭の固い人間である。
それは自己開示をする機会を設けないで生きてきたからではないだろうか。

自己開示と主体性

自己開示は重要である。
自己開示をすることによって主体性が育まれるからだ。
主体性は自分の意思で生きている感覚のことである。
生まれたばかりの子供は自分の意思を泣くことで示す。
快・不快にとても正直である
しかし、そのうち、感情を爆発させるように泣く行為も、社会に適応する中で、少なくなる。
そのような行為は、他人との摩擦を生むからである。

主体性と摩擦

思えば、香月は他人との摩擦を避けるように生きてきた。
というのも、「香月の味方がいない」と思って生きてきたからである。
香月はシングルマザーの家庭に育ったので、母親と意見を対立させることは、生死を懸けなければならなかった。
親子間の上下関係が圧倒的だった。

とにかく香月は、子供時代には、母親との対立を避けるように生きていた。
香月の母親は、シングルマザーであることを、世間に知られないように、香月に口封じしていた。
それは、シングルの家庭が世間から舐められたり、犯罪に遭うリスクを減らすことを目的としていた。
しかし、子供時代の香月は、子供同士で父親の話題になると、困惑したものだった。

香月が母親と対立したことが1度ある。
香月の母は、香月を中学受験させようとしていた。
そのためには、香月は当時通っていた野球チームをやめなければ、ならなかった。
しかし、香月は当時、野球を続けたいと思っていた。
しかし、これが母親と意見を異にすることであったので、直接伝えることができず、手紙にして、朝学校に行く前に、テーブルの上に置いておいた。

下校すると、母親がブチギレていた。
そのまま、足を組んで椅子に座った母親の前に、正座させられ、何やら言われた。(内容については、問い詰めであったか、香月がひと言も喋ってないか、覚えていない)
その後、1週間口を聞いてもらえず、自殺しようと思っていたところ、野球をやめると約束させられ、許されることになった。

この10歳ごろの経験が大きかっただろうか。
香月は主体性を持つことも、自己開示することもやめた。

摩擦と意見

主体性なるものを再び育てようと思ったきっかけは、大学の卒業論文である。
論文とは、そもそも自分の「意見」を言わなければならないので、主体性を自分の中に持たなければならなかった。
自分の意見を言うのは恐ろしい。
「そんなわけないだろ」
「お前は間違っている」
そんな声がずっと頭の中で鳴っていた。

その時期に同時並行で進めていたのは、「断捨離」と「日記」だ。
断捨離は、
・必要か?
・適当か?
・快いか?
という問を自分に向けながら、
現在軸・空間軸・自分軸
の3つの基準軸で、身の回りにあるものを選別する片付け術だ。
これによって、自分軸=主体性を取り戻しながら、論文に取り組んだ。

もう一つの「日記」では、毎日3行だけ書くことを続けた。
①その日に感じた感情
②その日にやったことを褒める
③感謝したいことを書く
これら3行を書く中で、自己肯定感が育まれた。

結果として、論文を書くことができ、卒業できた。

意見と自己受容

意見を書くことは、自分自身を受け入れることに繋がる。
書くことで、自分が整っていく感覚がある。
この感覚が自己受容なのかもしれない。
書く行為は、頭の中にいくつもある意見、想いの中から一つを選ぶことだ。
このプロセスは無意識で行われる。
この流れに身をまかせることは、自分の中の生命エネルギーに身をまかせることだ。
生命エネルギーに身をまかせることは、この世界のシステムに身をまかせることである。
この感覚は、水にプカプカと浮かぶときに、力を抜いている感じに近いかもしれない。
何もしなくても、水の浮力は人間を浮かばせてくれる。
この任せきった状態こそ、自己受容なのだろう。
意見についても、どうようだ。
どのような意見だって、認められる。
自分の中でOKにする。
だって自分でどうにかするものはなく、この世界が浮かばせてくれているのだから。

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