聖書「伝道者の書」 空の空すべては空 ソロモン王の言葉をどう引き継ぐか。
徒然に、まとめきれぬままに、
自分は昔クリスチャンでした。
たくさんの聖書の言葉を暗記する年代を経て、すっかり忘れた年代を経て、最近時々思い出す言葉があります。
いくつかあるのですが、ふと今日思い浮かんだものなどを。
そして、最後のしめ
私が聖書に親しんでいたのは二十年以上前。
そして、それ以来聖書を開くこともありませんが(実はこの数ヶ月やっとぱらぱらとめくっていますが)、この句はその間も時々去来する句でありました。
なぜか心に残っていたし、疲れたときなど空の空、すべては空、というわかりやすい言葉に浸る気持ちもありました。
たぶんかつてクリスチャンだったころ以上に、この言葉をはいたソロモン王の気持ちが身に沁みるようになっている気がします。
たかだか当時の二十歳前後の若さでは、十分わかるにはまだ早すぎる言葉ではないでしょうか。
当時は、わからないまでも人生への「予感」もしくは、「予習」としてしたり顔でわかったと言っていたようなものです。
自分がクリスチャンだった時の話は、おいおいしていければと思いますが、
当時小学生に教える教師をしていた自分は、
もしかしてこの句をもとに小学生に対して何かを語っていたかもしれません。
記憶はないですが、ありえてもおかしくはなく、若者が子供に人生の何たるかを予感をもとに語っている、そういう浅薄な図もありえたわけです。
ともあれ、栄華を極めたソロモン王のこれが偽りなき言葉だと今は身に染みて思うわけです。自分は決してその立場になくとも、自分の最近の卑近な例で言うとこういうYotubeを最近みても、真実ではないかと思ました。
もっと個人的な例をあげると、
先日実家へ帰省した時にみた父親の姿。
自分は年に盆と正月しか帰省しないですが、
仕事人間だったのが定年しすっかり変わり果てた父親の姿
(そのショックが残っているわけですが)。
空の空と言わざるを得なかったソロモン王の苦悩、
もしくはその書き残さざるを得なかった切実さと誠実さ(正直さ)に、
この句を重さをもって思い出しています。
壮大なテーマを今ここで論じるつもりはなく、
別の機会にゆずりますが、ソロモンが当時神をみたわけはない。
聖書の神が実在するわけではない。
彼もまた私たちと同じように神をみることのできない、曖昧模糊としたなかで、神というものを感じたいと思っていただけの人間であることはかわりないし、だからこそ伝道者の書を面白く読めるわけですが、
富や快楽、私たちが願うものを求めて、そのほとんど全てを得た結果たどり着いたのが、「神」だったということに興味深さを僕は今覚えるのです。
ソロモンが見た神と、僕たちが見る神は別のものでもいい。
ただ、共通項的なものを抽出すると、「確かな土台」であったのだと思います。
父は組織人・仕事人であって、それを確かな土台とした。
けれどもそれはそこから離れた時に何ものこならない土台だった。
ソロモンは自分の快楽を土台としたが、それもまた何も残らない土台だった。
その時に、ソロモンは確かな土台として「神」というものを思い浮かべた。
「確かな土台」の別名称としてただ単に「神」を名称したか、
もしくは「神」と名称し得た土俵があった。
いずれにせよトートロジーの話です。
終わりが見えた日々のなかで、自分はXXのうえに十分日々を費やすことができた、と笑えるならば、すべてを肯定できる。
最も意義あるのために費やせた意義ある日々だった、と言えたならば、どんなにか幸せなのだろう、
ソロモン王は自身の快楽の土台が虚しいと思った。
意義ある別の土台を「神」と表現した。
父は組織、仕事の上に自分の日々を費やした。
ソロモン王は自身の快楽の上に日々を費やした。
資本主義の「成功者」たる上の松浦氏もまたソロモン王ほどではないしにしても、財と快楽の上に日々を費やした。
それでも、「空の空、すべては空」という言葉が、
三者三様に僕には聞こえてくるような気がしています。
ソロモンのいう「神」はただの「確かな土台」の仮称(別名称)でしかなく、けれども重要な示唆をあたえてくれる言葉だと僕は感じています。
お金でもなく、組織の命題でもなく(仕事でもなく)、
神=確かな土台と言われるもの。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」
ここでいう「創造者」が何なのかを探求したいと思っています。
端的にいうとそれは自身であり、ワンネスであり、仏教で言う空であり、
人生をかけるゴールイメージだったりすると思います。
聖書を読む時に、神をそのように解釈してみるとよく理解できます。
とりとめもないままですが、続きはまた別の機会に譲りたいと思います。
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