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第七十六話 イトマキエイ/イワシの色は海の色

もくじ

 その後、何人かは島の木陰に入って休み、ほかの人間は飛び込みを継続した。高台の下で散発的に水音が立ち上っているが、さっきみたいな盛り上がりはなく、のんびりした空気が島に漂う。

 真一は木陰で会話していたが、だんだん暑さを感じ始めて、また高台へ向かった。

 濡れた岩の上に足を揃えて、湾内の景色を眺め渡す。西側の岬の近くに、島や岩礁が固まっているのが見える。湾の真ん中は、概ね障害物のない海面が広がる。ただ、ここからそう遠くない南西の沖合に、平べったい岩礁が二つ並んでいるのも見える。

「あそこまで行ってみたい奴いる?」

 振り返って益田と四谷に訊いた。現時点で一緒に飛び込みをしているのは、この二人。

「僕はやめときます。海で泳ぐのは慣れてないので」
「あんな所まで往復したら疲れちゃいますよ」

 二人とも行く気はないようだ。雑談に夢中になっている木陰の仲間たちに声をかけたところで、返事は同じだろう。久寿彦も岡崎も体力があるほうではない。

 一人で岩礁へ渡ることにする。

 前に向き直り、目視で岩礁までの距離を測る。遠近感のつかみづらさを考慮しても、岩礁まで百メートルはないはずだ。

 二つの岩礁の先に見えるくっきりとした水平線。その上に覆いかぶさる夏空に飛び込むつもりで、両足を踏み切った。

 飛び込みのさ中は、一瞬だけスーパーマンになった気分になる。

 水面を突き破り、海中をくぐり抜けると、あとは目標に向かって一直線に泳ぎ出す。腕を掻き出すたびに、体が冷たさに馴染んでいく。自分と世界の境界が曖昧になっていく。やがて、海と一つになった。

 中間点くらいまで達したところで、クロールから平泳ぎに泳ぎ方を替えた。

 海中に潜って目を開けてみる。

 予想通り、ぼやけた景色しか見えない。海底に岩場と砂地が混在していることはわかるが、クリアな視界ではない。水は透明なのに。中層付近を泳いでいる魚の群れは何だろう。アジ? サバ? タカベ? これも漠然と魚の形がわかるだけだ。

 やっぱり、マスクなしじゃダメか……。あきらめて浮上しようとしたそのとき、前方の海底付近に大きな黒い影を発見した。輪郭は曖昧でも、動いていることはわかる。

 決定的瞬間の予感がし、一旦息継ぎすると、すぐさま水中に潜り直した。

 動く影は、岩場から白い砂地の上に出て来たところだった。背景が明るくなったおかげで、朧げながら形がわかる。ステルス戦闘機のようだ。鳥のようにゆっくりヒレを動かしている。トビエイ?――しかし、明らかに大きさが違う。ヒレの端から端まで、横幅は二メートル以上ある。あれは、イトマキエイだ。

 正体に気づいた瞬間、両手でガッツポーズを作った。イトマキエイに遭遇するなんて、滅多にないこと。真一は、過去に一度しか見たことがない。秋口に堤防で釣りをしていて、たまたま目の前の船道を横切っていくところを目撃した。貫禄たっぷりの姿に、マンタと勘違いしそうになった。いや、実際、小型のマンタだろう。マンタ――つまり、オニイトマキエイは、名前からわかる通り、イトマキエイの仲間。

 マスクを付けていないことが悔やまれる。

 だが、それを言っても始まらない。自然相手の遊びは、得てしてこういうもの。肝心なときに都合よく道具があるとは限らない。

 視界が悪いなりに、雄大な姿をしっかり網膜に焼き付けようと、息を継ぐ間を惜しんで目を瞠る。イトマキエイは優雅にヒレを羽ばたかせながら、砂底付近を横切っていく。巨大な鳥みたいな後ろ姿は、やがて、ゆっくりと海中の青い闇に吸い込まれていった。

 興奮冷めやらず、浮上すると水面に仰向けになって気持ちを落ち着かせる。

 見上げた空が高い。青空と入道雲の境目あたりを、豆粒ほどの大きさのトンビがゆっくり旋回している。湾を抱く山並みが発するセミの声がだいぶ遠くなった。耳元でちゃぷちゃぷ爆ぜる水の音。赤ん坊が胎内で聞いているのもこんな音かもしれないと、ふと思った。そう思ったのは、きっと海のせいだ。広大な海の真っ只中では、大人だってちっぽけな赤ん坊に等しいはず。

「大丈夫ですかー」

 人の声がした。

 首を持ち上げて爪先側を確認すると、岡崎がこちらへ向かって泳いでいた。

 真一が溺れているとでも思ったのだろうか。気遣われたことに対する感謝の気持ちは湧かず、むしろ、相手がヘビースモーカーの岡崎だったことが癪だった。

「追いついてみろ」

 身を翻して叫び返した真一は、クロールで沖の岩礁を目指した。

◇◇◇

 二つ並んだ岩礁のうち、手前側の大きい岩礁に上陸した。幸い、東側に浅い岩棚が張り出していたので、上陸は容易かった。岩棚にハオコゼやガンガゼのような毒魚、あるいは毒を持つ生き物もいなかった。

 満潮時、岩礁は大方水に浸かってしまうようだ。南側にわずかに乾いた高い場所を残して、大部分が濡れて光っている。

 中央に大きな潮溜まりがあった。よく見ると水面がざわついている。何かいるようだ。確かめに行ってみる。

 ざぶん、と足を突っ込んだ潮溜まりは手前側が浅く、奥の方が深くなっていた。ゆっくり進んでいくと、膝くらいの深さの所で、繊月型の魚が群れているのが見えた。海を切り抜いたような青緑色の背中。人の接近に気づいて一斉に身を翻し、バシャッと水しぶきを立ち上げる。全部で三十匹くらいいるだろうか。そのまま群れに突っ込んでいくと、さっと二手に分かれ、透明な水の中を右往左往する。

 カタクチイワシの群れだった。大きい魚に追われて、ここへ逃げ込んだのだろう。

 真一は足を止めて、泳ぐイワシたちを見つめる。明るい背中の青緑は、陽射しをたっぷり浴びた海の色そのもの。熱帯魚と比べても遜色ない鮮やかさ。たぶん多くの人々は、イワシがこんなに美しい魚だとは知らない。思い浮かべるのは、黒と銀色の地味なツートンカラーの魚の姿だろう。つまり、スーパーで売っている目刺しや煮干しのような。もちろん、獲れたてのイワシでもそういう色遣いの個体はいる。濁った海のイワシは、生きた状態でも出刃包丁みたいな色をしている。だが、ゑしまが磯のような澄んだ青い海のイワシはそうではない。背中の青緑色は瑞々しく生命感に溢れ、魚というより新鮮な果物を連想させる。目刺しや煮干しとは似ても似つかない。

 潮溜まりを回遊するイワシたちに見とれていたら、岡崎が岩礁に到着した。

「シンさん、いきなり変なこと言わないで下さいよ。無駄に体力使っちゃったじゃないですか」

 くたびれ切った顔を向け、猫背でぶつくさ言いながら濡れた岩場を歩いてくる。そうだった。溺れる心配があったのは、真一より常日頃煙草で肺を痛めつけている岡崎のほうだった。うっかり置き去りにしてしまったが、無事で何より。

「悪い、悪い。それよりこっち来てみろ」

 岡崎は怪訝そうに目を眇めた。潮溜まりに入ると、じゃぶじゃぶ歩いて真一の隣で足を止めた。

「おっ、イワシですか。いいもの見つけましたねえ。持ち帰って昼メシのおかずにしましょう」

 愚痴の口調から一転して明るい声で言う。

「でも、袋がない」

 ざっと見たイワシの数は三十匹くらい。海パンのポケットに入れるには多すぎるし、全部入ったとしても、泳いでいるうちにこぼれ落ちてしまうだろう。それに、身の柔らかいイワシをポケットに押し込むことは、できれば避けたい。

「誰か呼びましょうか」

 岡崎は潮溜まりから出て、島と向かい合う北東側へ歩いていく。岩礁の端っこまで行き、両手を口に充てがって、おーい、と叫んだ。

 だが、森の陰からは誰も出てこない。ベースキャンプや砂浜に人は見当たらないので、仲間たちはまだ島に残っていると思うのだが。

「おーい、誰かー」

 もう一度叫んでも結果は同じ。

「聞こえないのかな」
「セミの声がうるさいんじゃないか」

 島の森では何種類ものセミが鳴いている。木陰で会話していたら、頭上にセミの大合唱を聞くことになり、遠くの声が届かなくても不思議ではない。岡崎も同感したらしく、海パンの横をはたいて真一を振り返った。

「よく気づきましたね。きっとそうですよ」
「どうする? 人文字でも作ってみるか?」

 片仮名の 「フクロ」 なら二人でも何とかなりそうだ。

「人が出て来なきゃ、やっても意味ないでしょ」
「もちろん誰か出て来てからの話だよ」

 真一も潮溜まりを出て、岡崎の隣まで行った。無人の島に向かって、声を限りに叫ぶ。

「おーい、おーい、おーい」

 人文字を作るにしても、仲間を木陰から引っ張り出さないことには始まらない。

「おーい、おーい」
「おーい、おーい」

 岡崎も一緒になって叫ぶと、うっすらしたセミの声を押し退けて、二つの声が響き渡る。

 すると思いが届いたのか、森の陰から人が現れた。海パンの色で、一目で久寿彦だとわかった。南側の岸壁の縁までやって来て、耳に手を当てる。

「ふーくーろーっ」

 岡崎がありったけの大声で叫んだが、果たして通じるか。音として届いても、言葉が聞き取れるかどうかはわからない。聞き取れなかったら人文字を作るしかない。

 だが、いらぬ心配だった。久寿彦は頭の上で大きな丸を作った。

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