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第二話 告白
それは、ずっとごまかし続けてきたことだった。薄々気づきながらも、ばったり鉢合わせしないよう、周到に回り道を選んできた。時折頭をもたげてくる絶望的な確信に、こじつけじみた理屈で蓋をし、何とか意識の外へと追い返してきた。
幻想の小島を守るためのバカバカしい努力。
不毛な悪あがき。
だが、それも今日で終わりだ。何の警戒もなしにビデオデッキに突っ込んだテープは、隠してきた事実を無慈悲に暴き出していた。目の前に動かぬ証拠を突きつけられて、もはや言い逃れすることはできない。
冷蔵庫のか細い音が、暗闇に一筋の線を引いている。閉め切った部屋の中、現実の手応えを感じさせてくれるものはそれだけ。いや、実際には、この音さえうっすらしすぎて、現実感は希薄と言っていいかもしれない。夢と現のあわいから立ち昇ってくるような、実体があるようなないような曖昧な音……。
薄い夏掛け布団をはいで上体を起こす。少しの間ぼーっとしてから、ベッドの縁に腰掛ける。
起きたばかりで、すぐに動く気になれない。ふうっと息をついて、霧がかかった意識が晴れるのを待つ。
どこともつかぬ一点を見つめていると、暗闇に青白く映画のカットが蘇ってきた。
飛ばない飛行機。ピンクのキャデラック。イヌイットの少年。犬ぞりに曳かれるレオとアクセル。空をゆらゆらと泳ぐオヒョウ。往年の名画を彷彿とさせる赤い風船……。
冷蔵庫の高く細い音に導かれ、次々と映像が現れては消えていく。記憶がフィルムなら、自分の両眼は映写機のレンズだ。漆黒のスクリーンに浮かび上がる幻像の数々は驚くほど鮮明で、形のない現実よりずっと存在感がある。あたかもそれ自体が生命を宿しているかのように、生き生きと揺らめき踊る。
「俺は、もう若くない」
不意に唇が動いた。
声に掻き乱された闇を、冷蔵庫の音がすぐに均す。
しかし、鼓膜に引っかかった言葉は消えない。闇の中の体がびくりと動いた。
決定的なことを言ってしまった。
一語にすべてが集約されていた。
もはや罪を自白した罪人も同然だ。
「子供と大人の変わり目、か……」
闇を仰いで、がっくりと肩を落とした。アクセルとレオの会話が、頭の中で壊れたテープレコーダーのように繰り返されていた。
若さは永遠ではなかった。
真一がこれまで頑なに否定しようとしてきたこと――それは、自分が大人になってしまったことだった。
◇◇◇
変わるものなど何もない――。
ずっと、そう信じてきた。
今、自分の中にあるものは、どんなに時が経っても色褪せない。例えば、湧き立つ夏の雲のように常に高揚した気持ちも、あれこれ首を突っ込みたがる好奇心も、森羅万象に対する純粋で敬虔な感じ方もすべて。
三つ子の魂百まで、と言う。若さも同じだと思っていた。この世に誕生して以来我が身に具わっていた魂は、この先年を取っても、さらに長い時が経過して体の衰えが目立ち始めても、ずっと同じ姿を保ち続ける。
それは、ちょうど常盤木の葉並のようなものだ。常緑の木々の葉っぱは、夏の陽射しの下でも、冬の寒さにさらされても、激しい雨に打たれても、風に吹かれても、常に青々としている。健やかで瑞々しい様は、いつ何時も変わらない。
いつか青春の輝きを失くす――。
ありふれた言葉だ。探そうとすれば、どこにだって見つけられるだろう。雑誌の記事にも、流行歌の歌詞にも、映画やドラマのセリフにも、人々の何気ない日常会話の中にも……。
だが、その言葉の本当の意味を知ることはなかった。
失くしたものは取り戻せない。
それは、嘘偽りなく失われる。
◇◇◇
「若い」、「若くない」 は、人それぞれ。老いてなおハツラツとした人もいれば、若いうちから早々と老け込んでしまう人もいる。「若さ」 は、必ずしも実年齢のものさしで測れるわけではない。
「若さ」 を 「青春」 という言葉に置き換えた場合はどうか。
二つの語は、似ているようで違う。「若さ」 が個人の体や心の状態を言い表すのに対し、「青春」 は人生における特定の期間を指す。「あの頃が自分の青春時代だった」 とか、「彼は今、青春の真っ只中にいる」 というふうに。
ただ、若さと同様、青春の長さも万人に一律ではないだろう。ツンドラの大地の草花のように短い青春があれば、永遠の青春を生きる人もいるかもしれない。
後者の生き方には、誰もが憧れるけれども、普通はそのようには生きられない。やがて人生の現実が迫ってくる。無邪気に過ごした日々が名残惜しくても、そこに別れを告げなくてはならなくなるときがやって来る。
真一にしても、この程度の自覚がなかったわけではなかった。気の合う仲間と時間を忘れて語り合ったり、好きなことを第一に考えて毎日を生きたり……そんな特別な 「今」 はいつまでも続かない。
しかし、だからといって、「いつか」 を憂えたり、そのことで思い悩んだりはしなかった。
確かに、青春には終わりがある。だが、それで自分の何が変わるのか。人生に一区切りつくことは認めても、素の自分は何も変わらないのではないか。
これまでの人生を振り返っても、変化を感じたことはない。子供の頃はもちろん、思春期を迎えても特に感じるものはなかった。ドラマなどで描かれる十代は、嘘とは言わないまでも、やはりどこか誇張されていて、実際の自分とは違っていた。
高校を卒業して就職したときは、確かに大きな節目ではあった。就職先は、このあたりの人なら誰でも知っている老舗のホテル。当時は、定年まで働くつもりでいた。バブルが弾けて一年かそこらの話である。何年か前に、「デューダしよう」 なんて流行語もあったが、就職は一生ものという考え方がまだまだ世間に根強く、真一も当たり前のようにそう捉えていた。
ホテルに勤めていたのは、去年の春まで。丸四年働いて、それなりに社会人らしくなったと思う。生活能力も身について、一人暮らしで困ることはない。
世間一般の基準では、それが 「大人になること」 だろう。
社会の中で、自分の役割と責任を果たすこと。それによって収入を得、生活を成り立たせること。経済面でも、精神面でも、親の世話になっているうちは子供、一人で生きていけるようになれば大人……。
誰にともなく、説教臭く言われてきたことだ。
真一自身、漠然とそう思っていた。
だが、今は違う考えを持っている。
世間一般で言う 「大人になること」 より、もっと根本的な次元で人間は変わってしまう。それは、オヒョウの目が成長するにつれて体の片側に寄っていくような、目に見える変化ではないけれど、同じくらい決定的で重要な意味を持つ。
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