見出し画像

第二十四話 春愁

もくじ 2,007 文字

 昨日の夕方、岩見沢の家に行った。借りていた漫画を返すためだ。岩見沢の仕事は早出で、真一が訪ねて行った六時頃には夕食も済み、インターホンのボタンを押すと、すぐに応答があった。
 用事が済んで、門の前で立ち話をしていたら、大学から帰ってきた岡崎が、スクーターで目の前を通りかかった。岡崎の家は、岩見沢の家のすぐ近くにある。岩見沢の家の前の道路は、岡崎が幼稚園の頃から使っている歴史ある通学路なのだとか。
「こいつの就職先が地元に決まったら、通勤にもこの道を使いますよ」
「家を二世帯住宅にしたら、子供も使うな」
「そうなったら、『岡崎通り』 って命名して、役所に申請してやります」
 岩見沢とそんなことを言って、岡崎をからかった。
 その後、岡崎が駅で中学時代の友人に会ったと切り出したのをきっかけに、岡崎と岩見沢だけの会話になった。地元の人間ではなく、同じ学校に通っていたわけでもない真一に、二人の話はわからない。スクーターに跨りながら、聞くともなしに聞いていた。
 岡崎が友人に会ったというのは、四、五日前の夕方のこと。大学の講義が終わって家に帰る途中、駅で偶然友人の姿を見かけ、岡崎のほうから声をかけたという。雨が降ったその日、岡崎はバスと電車を乗り継いで通学していた。久しぶりに岡崎の顔を見た友人は大いに驚き、改札前の広場で立ち話となったが、長くなってくると彼のほうから、どこかで座って話そう、と持ちかけてきて、近くのファストフード店に入った。コーヒーを飲みながら、積もる話に花が咲いたという。
 真一が聞いていたのは、どこにでもある話だ。何組の誰それは、いっこ上の何とかという先輩と結婚したとか、同じ部活だったあいつは、転勤して地元にいないとか……。さして面白味のある話ではなかったが、登場人物たちの顔を知っている岩見沢は、時折驚きの声を上げたり、質問を挟んだりして、興味深そうに耳を傾けていた。
 いつの間にか、夕闇の色が濃くなっていた。
 どこかの家から漂い出る煮炊きの匂いが、強く印象に残っている。
 岩見沢の家の門灯が煌々こうこうと灯っていたので、二人の表情はよくわかった。
 彼らを包み込んでいたのは、いつもと同じ空気。そこにはいつもと同じ時間が流れ、いつもと同じ感情に満ち、いつもと同じ温度が保たれている……。
 何の変哲もない言葉のやり取り。目の前で展開されていたのは、ありふれた日常のひとこまに過ぎなかった。
 自分は、この世界をよく知っている。
 ずっと昔から慣れ親しんできた。
 スクーターに覆いかぶさりながら、ぼんやりとそう思った。
 ただ、一つだけ、いつもと違う点があった。
 自分がその世界の中にいない、とはっきり感じた。
 どうしてそう思ったのか。
 二人の会話についていけなかったから、という理由は的外れだ。あのときの自分を捉えていたのは、そんなありきたりな感覚ではなかった。
 それは、静かな発作のようなものだった。はっきりと違和感を自覚しながら、あたかも他人の身に起こった出来事を観察するように、冷静に自分自身を見つめていた。まるで、感情を一切宿さない監視カメラにでもなってしまったかのように。
 ――彼らと自分は、決して相容れない。世界を異にする別種の存在同士なのだ。
 そんな考えが突然ひらめき、頭の中に居座った。
 二人がまとっているある種の雰囲気。彼らの世界に固有のカラー。
 決定的な断絶を感じた。
 ――水と油を同じ容器に入れても、混ざり合うことはない。
 ――体の免疫システムは、自己と非自己を区別する。
 ――死んだ人間の魂は、この世に留まることを許されない。
 わかりやすく例えるなら、こういうことなのだ。
 それは、蓬莱公園で味わったこととは、微妙に内容が食い違っていたかもしれない。
 だが、表面的な違いがどうあれ、二つの体験は同一の淵源に根ざしていると思う。

 どこからか羽音が近づいて、トレーナーの袖口に一匹の虫がとまった。ハンミョウに似ているが、色が違う。ベニカミキリだ。腕を這い上がろうとしたので指先で弾くと、深みのある赤い鞘翅しょうしを広げて、どこかへ飛んでいった。
 風に乗って、小林たちの笑い声が届けられる。振り返ると、菜の花の花群はなむらの合間に、談笑する三人の顔が隠れ見えた。ベンチ中央の岡崎が煙草を吸っていないところをみると、そろそろ出発の時間だ。
 U字ブロックから腰を上げ、ペットボトルのキャップを締めた。お茶はあまり減らなかった。
 ズボンの後ろをはたいたとき、足元に白いタンポポを見つけた。白いタンポポは関東地方では珍しい。鎮守の森へ続く道に咲き乱れているタンポポは、すべて黄色いタンポポだ。
 青草の合間にひっそりと咲く花を見つめていたら、またふつふつと思考が湧き出しかけてきたが、ちょうど真一を呼ぶ声がして、三人の所へ戻って行った。

いいなと思ったら応援しよう!

鈴木正人
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは、取材費、資料購入費に使わせていただきます!