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第三十二話 川辺の宿

もくじ

 「アルカディア」 から楽々谷温泉までは、大してかからなかった。店の前の道を棚田のほうに少し戻った所に、おとり鮎販売の掘っ立て小屋が立っている。小屋の手前で細い道に折れ、森の中をうねうね進んでいくと、左手に観光客用の無料駐車場が出てくるが、ここを過ぎてすぐ、吊り橋のそばに茶色い二階建ての建物が見えた。

 玄関脇で満開に咲き誇っている菊桃の前に小林は車を停めた。ほとんど蛍光ピンクに近い細やかな花弁。その色は、少しだけ紫がかっているようにも見える。花桃が圧倒的に多い楽々谷で、違う花木の花は新鮮に映る。

 車を降りると、砂利敷の駐車場には、ほかに銀色のセダンが一台停まっていた。客の車か従業員の車かはわからない。旅館の建物は、茶色いトタンの壁に飾り気のないサッシが並ぶ味も素っ気もない外観。楽々谷の温泉などついぞ聞いたことがなかったが、この建物を見れば、なぜメディアが取り上げないのかがよくわかる。パッと見、工事現場の仮設事務所か材木工場のような佇まいで、観光客にアピールできる点は一つもない。元ホテル従業員の真一の目で見なくても、商売っ気のなさは明らかだ。鮎やワカサギの釣り場が近いということだから、常連や釣り客相手にのらりくらりとやっているのだろう。

 四人で玄関の前まで行き、何枚も並んだガラスの引き戸の一枚を小林がカラカラと引き開けた。真一はマサカズに続いて敷居を跨ぐ。しんと静まり返った館内は、古い建物特有の臭いが鼻をつく。ワインレッドのカーペットが敷かれた廊下。壁は安っぽい木目柄のベニヤ板。ロビーには、長方形の囲炉裏と絣の座布団を敷いた長椅子が一対設えられている。囲炉裏の火棚から魚の横木が付いた自在鉤がぶら下がっているので、鍋を吊るすことも可能だ。旅館の裏手を流れる川が鮎の釣り場らしいが、魚を釣ったらここで焼いて食べられるのだろうか。

 だが、囲炉裏の灰は冷え冷えとし、隅っこの大型テレビも消えている。人の気配もなく、かすかな川音が静寂を満たすのみ。

 従業員がすべて出払ってしまったのではと疑ったが、小林が帳場のブザーを押すと予想に反して、ただいま参りまーす、と愛想のいい声がドア越しに返ってきた。すぐにガチャリとノブが回る音がして、小柄でずんぐりした体躯の男が現れた。ネルシャツに藍色の法被。衿の部分が 「楽々谷温泉」 と白く抜かれている。六十前後の年の頃からして、旅館の主だろうか。日帰り入浴をしたいと伝えた小林に、赤黒い顔をほころばせ、四名様?、と太い指を立てた。

「はい。あとタオルありますか。手ぬぐいでも構いませんが」
「はいはい。四名様分でよろしいですね」

 男は体を丸めて、帳場台の下に手を伸ばす。木製の台の表面は、長年の客とのやり取りで磨き抜かれ、鈍い光を放っている。きっとこの建物が立つ前から使用されてきた年代物だろう。後ろの壁にタオルや手ぬぐいの値段は出ていないが、観光地料金で三百円くらいだろうか。

「ちょっと待った」

 マサカズが言った。

「やっぱ俺は温泉はいいや。こっちにする」

 帳場の反対側を指さしている。囲炉裏に気を取られて今まで気づかなかったが、三和土の突き当たりに、竹竿の束が突っ込まれた木箱が置いてあった。そういえば、駐車場の入り口に立っていた旅館の看板の鉄柱にも 「貸竿アリマス」 と赤いペンキで書いたベニヤ板が括り付けられていた。

「でも、お前一人で大丈夫なのかよ」

 岡崎は困惑顔だ。マサカズは釣りの素人。小林の釣りに付き合ったことはあるが、自分で仕掛けを作れない。

 だが、竿立てをよく見ると、どの竿にも赤い玉ウキがついている。一応、誰でもすぐに扱えるようになってはいるようだ。

「何とかなるだろ。おじさん、ここ何が釣れるんですか」

 マサカズはあっけらかんと訊いた。

「今はウグイとオイカワだね」

 男は銀歯を覗かせて、にこやかに答える。黒光りする帳場台には、すでに四人分のタオルが並べられている。

「ええっ!? 鮎は?」

 たぶん、おとり鮎販売所の掘っ立て小屋を見て、鮎が釣れると思ったのだろう。だが、鮎釣りが解禁されるのは六月から。魚もまだ川を遡上している最中だ。小林に呆れ顔で教えられると、マサカズは恨めしそうに 「あそこで焼いて食べたかったのに」 と囲炉裏を睨んだ。
 だが、鮎はともかく、ウグイやオイカワなら素人でも釣れるだろう。迷っているマサカズの背中を押してやるべく、真一は帳場の男に尋ねた。

「エサは?」
「そうだね、川虫がよく食うけど、捕るのが面倒ならサシがあるよ」
「じゃ、ひとパック下さい」
「はい、ちょっと待ってね」

 男がドアの向こうへ消える。小林と岡崎が呆気に取られて真一を見つめていた。

「俺がこいつに付き合うから、お前らは温泉に入っていいよ」

 やはりぽかんとしているマサカズを指さして、真一は言った。

 あらかじめ竿に仕掛けが巻きつけられているとはいえ、何かトラブルがあった場合、マサカズ一人では対処できないだろう。それに、素朴な竹竿を目にしたら、真一自身、腕がうずいてしまった。昔住んでいた地域では、オイカワとウグイ、それにアブラハヤをひっくるめて 「ハヤ」 と呼んでいたが、ハヤ釣りは子供の頃ずいぶんやった記憶がある。温泉もいいけれど、久しぶりにあの小気味いい手応えを味わってみたくなった。ちょうどヤマブキが咲き始めた頃だし、魚の食いも立ってきているはず。

「べつにいいだろ? ちょうど二人ずつに分かれるし」
「まあ、俺たちは構いませんけど……」

 なあ、と顔を向けた小林に、岡崎がうなずく。

「じゃあ、待ち合わせはどうします?」
「先に終わったほうが迎えに行けばいいだろ」

 だが、それでは小林たちに迎えに来いと言っているようなものだ。風呂から上がるのと釣りを終えるのとでは、前者が早いに決まっている。あっ、と真一が気づくと、小林は破顔し、

「わかりました。迎えに行きます」

 話が決まったところで、男がサシを持って帳場に現れた。

「本当にいいんですか?」

 小林と岡崎がタオル代と入浴料を払っている後ろで、マサカズが訊いてきた。真一はまったく構わない。久しぶりのハヤ釣りは、真一にとっても楽しみだ。昼間の水切り以上に、少年時代を追体験できるだろう。ただ、マサカズが、「エサ代は自分持ちで」 と言ったので、そうしてもらうことにした。エサ代二百円はコーチ料だ。

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