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ポンコツの履歴書 (2) コウノトリは一般的な家庭にポンコツを運んだ
私は平成4年所謂昭和68年に(1992年)、ベルリンの壁の瓦礫が完全に撤去されて間もなく、ベルリンの壁と生まれ変わるように大阪の岸和田に生を受けた。
ポンコツの先祖は関東地方で領主を務めており、実際に居城を構えていたが、最終的には豊臣家に接収されたと聞く。今は跡形もないものの、城跡碑は残っている。
その後、戦に敗れたポンコツ先祖は逃げるように関東地方を離れ、関西すらも通り超え、中国地方に移り住んだ。父・敬の2代先祖が小さな村長を務めた以外は、親族から目立った有名人や著名人は出ていない。至って名家でもなければ、一般的な家庭で生まれたというのがポンコツのルーツだ。
祖父は地元・岸和田の繊維工場で働き、他の人と同様に戦時中に徴兵されたが、派遣先は割と落ち着いた地域であったため、奇跡的に大病・ケガもせず軍務を解かれ復員することが出来た。
一方で、繊維工場で働きながらも、稼いだお金をお酒につぎ込む酒乱であり、よくトラブルを起こしていた。小さい頃、夕方学校から帰ると、祖父はお酒を飲んでよく祖母とケンカしていた。
そんな祖父が、私の5歳の誕生日プレゼントを買いに出かけたきり、家に戻らなかった時がある。プレゼントを買いに相当遠くまで出かけたのだ。帰れなくなり、保護されていた。認知症や足腰が弱くなる中で私の為に、そこまでしてくれた祖父だ、良い記憶がいつまでも残っている。
実際のところは分からないが、公務員である父の隆と看護師の母の未知子は、昔ながらのお見合い結婚だったと勝手に想像している。
身長も平均的な両親は子供を2人設けた。姉と私だ。予定日を3日過ぎた1992年の桜が散る頃、私は朝の11時46分に3,776gという当時では珍しい、富士山のような大きな身体で岸和田の病院にて生まれた。姉が生まれて3年後の話だ。
その後、祖父の住むを家を改築し、2世帯住宅で祖父母・両親・姉の6人で住み始める。
父の隆は全くに怒らない人であった。父・隆は全くに怒らない人であったように思う、自分の人生を振り返っても、本当に怒られたというのは一度だけだ。
私自身、父が高齢での長男であった為か、「目に入れても痛くないと言わんばかりの愛情を受けた」それもあったのかもしれない。
一方で母は父とは正反対で非常に厳しかったように思う。「勉強・勉強・勉強」と常に言っていたように思う。父も母もいずれも高学歴ではなかったため、「自分が勉強できなかったのに、なぜそれを僕に押し付けるんだ?」という反骨心を常に持っていたし、口に出していた。母からは「高校の時は成績良かった方なのよ」と後出しジャンケンの極みのような回答が返ってきた。
実際に父も母も姉も学業的な意味での高学歴では無かった、また海外とも無縁の家系で英語とは一切かけ離れた環境で私は生まれ育った。
加えて、現在の「社畜 x 根性 x 行動力」とは無縁の生活環境だった。私の人間性「社畜 x 根性 x 行動力」は家庭環境から来たというよりかは、家庭外からの環境による影響が大きいと思う。これは小学校~大学で培われたので、後述にて説明をしていきたい。
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