映画「オッペンハイマー」と「この世界の片隅に」の凄さ

こんにちは。今回はいつもの音楽記事とは違いますが、書きたいことができたので書きます。
日本では今年の3月末に公開されたクリストファー・ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」と2016年の「君の名は。」と同じぐらいに公開された映画「この世界の片隅に」の共通点を共有したいと思います。

オッペンハイマー」をまず観て思ったのは、さすがイギリス人監督が作った作品だなと思いました。原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーを主人公にした作品なので、日本人の自分からしたら不信感が拭えなかったですが、いざ観てみると、さすがノーラン監督といった感じです。
結論、何がすごいと思ったかと言いますと、「原爆」という題材がありながらも、それを一大テーマにしていないことです。原爆開発の話題は映画中盤ほどでピークを迎え、その後はオッペンハイマーの裁判沙汰をメインにしていました。あくまでメインテーマは「原爆」ではなく「オッペンハイマーの人生」なんですよ、とでも言わんばかりの構成でした。
なんというか、「原爆を娯楽として消費させてやるものか」という気持ちを感じました。原爆の悲惨さや残酷さをメインテーマにした映画をつくるということは、原爆を娯楽として消費するということだとノーラン監督は思ったのでしょうか。原爆が正しいとか最低だとか、そういう議論を巻き起こす映画をつくること自体、原爆を娯楽としてみているということになってしまうのではないでしょうか。そうはさせまい、とああいう構成の映画にしたのであれば納得です。議論を巻き起こさない、それこそが彼にとって真の平和なのかもしれません。

そしてこの感覚は昔「この世界の片隅に」を見て私が感じたものと似ていました。太平洋戦争前・中・後の広島を舞台にしたこの作品でも、メインテーマは「戦争」でも「原爆」でもなくて、あくまで「すずさん(主人公)の毎日の生活」でした。さらにすごいことに、反戦思想すらもあまり感じられませんでした。玉音放送を聞いて「最後の1人まで戦うんじゃなかったんかね。私にはまだ左手も両脚もあるのに。」と主人公が言う日本の作品って、はっきり言って異常だと思いました。
しかしこれも「オッペンハイマー」と同じ意図を感じました。現代人は戦争を娯楽として見すぎである、そして戦争をテーマにしなくとも一人の人物にフォーカスを当てて面白い作品が作れるんだぞ、という皮肉も込められた2作なのではないかなと私は感じました。

「オッペンハイマー」について、作中に2度登場した
  我は死なり。世界の破壊者なり。
というセリフですが、こちらはインド叙事詩の『マハーバーラタ』に収録されている『バガヴァット・ギーター』に登場するヴィシュヌ神のセリフです。『バガヴァット・ギーター』の思想を理解することで、オッペンハイマー自身が何を思い何を考えたのかがより理解できると思いますので、今後また紹介したいと思います。


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