短編小説| 綿を噛む ②/3
↑前回のお話です
あたりは乾燥しきった平地で、ところどころに両手一杯に抱えられるほどの大きさの岩が転がっていた。岩影には細い草がまばらに生えていた。(その草はゴムのような弾力が、見ただけで感じられた)遠くを見遣ると、小高い山々が立ち並んでおり、どれも皮を剥ぎ取られた動物のように赤ちゃけていた。空は突き抜けるほど高く、顎をぐいと持ち上げて真上を見ると、眩しい太陽が激しく揺れていた。雲ひとつない。
地面に手をついて、体を持ち上げる。砂の粒が、手のひらに食い込み、ちくちく痛む。
北に向かおう。故郷に帰ろう。
男は、そう思い手のひらの砂を払った。しばらく、綿のことは忘れてしまっていた。体の軋み、内側から込み上げてくる熱、それらに浮かされて頭がぼんやりとしていた。革靴の表面に、熱で白い粉が吹いている。遠くには、鷹の影がゆらゆら地面を滑る。手のひらを見ると、分厚い無骨な形をしており、今更ながら自分が年を取ったということを自覚した。
「野を超え、山を越え、ついには国境を越えておれはあの男にあった。あの男は優しかった。とても、穏やかな表情だった。あいつの肌は冷たかった。あいつの粘膜は甘かった。けれど、あいつの真っ白い歯。あいつが口を下弦の月みたいな形にひん曲げた時に見えるあの真っ白い歯だけは、おれには我慢できなかったんだ。」
山稜から逸れて、断崖絶壁に切り出された細い道を下っていく。ゴツゴツした岩壁に張り付き、はるか下まで続く砂漠を見下ろしながらゆっくりと歩いていく。
「どうだ、おれ。まだ生きてるか。聞こえるか、おれ。この砂漠に吹き荒ぶざらざらした風の音。匂うか。おれの汗と、血と砂が混ざり合った土臭い匂いが。」
はるか頭上からパラパラと小石が降ってくる。男はその音に反応して空を見上げるが、小石が岩壁にぶつかった時に舞った砂が目に入り、思わず右腕を頭上にかざした。砂が気管に入って、激しく咳き込んだ。それと同時に今まで顎に相当な力を入れて堅く口を閉じていたことに気づいた。そして、昨日の事が鮮明に思い出された。
おれは綿を噛んでいたんだ。
口を開けると、綿は空気を全身で吸い込んで膨らんだ。歯茎に細い糸がちくちく刺さる。あんぐっ…と綿を押しつぶすように噛むと、苦い液体が中から染み出した。その液体は舌の奥の方に流れ込んだ。痺れを伴う不快な味だ。舌を思わず口の外に垂らした。
昨日綿を噛み出してから変化したこと。それは、味だけではなかった。物質感も変わっていた。昨晩の綿は、より繊維質だった。そして、乾燥してパサパサしていた。対して今噛んでいるそれは、粘り気が強く団子に近い食感だ。粘度が強いということは、歯にしつこくまとわりつくということだ。それが、男の歯茎をむず痒くさせた。
長く、細い坂を降り切って、砂に足をつける。二センチほど靴底が埋まった。両手を膝につけて、顔を上げる。どこまでも、なめらかな砂丘の起伏が続いている。
「なあ、おれの足、まだ動くよな。言うこと聞けよ。故郷まで帰るんだ。なんとしても。そしたらおれの病気も綺麗さっぱり消えてなくなるんだ。」男は独りごちた。
男は歩いた。何度も、頭がもげてしまいそうな頭痛に襲われた。道は単調だった。いくら歩いても景色は一向に変わらず、永遠に同じ場所で足踏みしているようだった。足は鉛のように重くなり一歩踏み出すのに相当な力を要した。
「まだ水残ってたっけ…。」男は腰のあたりを両手でまさぐり、小さな水筒を取り出した。蓋を開けて水を口に流し込もうとするも、水滴が舌をかすかに濡らしただけだった。
男は打ちのめされ、不運を嘆いた。傷を負ってそれを治しに遠出して、結果的に傷口に塩を塗り込む形になり、帰りには迷宮に迷い込み抜け出せなくなる。その度重なる不運と気苦労を思うと、一気に疲労感が押し寄せてきた。男は地面に座り込んだ。熱が、パンツを通して男の尻にまるで液体のように染み込んできた。
この時男の中に妙な感覚が生まれた。身に降りかかる痛みに快感を覚え始めたのだ。以前として歯には綿が挟まっており、健康な歯と歯茎を痛めつける。それがめまいと頭痛を誘発する。また、砂に重い足を取られながら体に鞭を打って長い距離を歩き続けたことで疲労は極限状態に達した。しかし、それが男にうっとりするような快感を与え、さらに多くの困難、痛みを求めさせた。
まるで、悲劇の主人公のように。
男は綿を仕切に噛み始めた。歯軋りしているように見える。噛めば噛むほど男の焦燥感、失望感は痛みの中に消えていき、強い恍惚感にとって変わる。痛みは、そこへ至るための切符だ。
皮膚が太陽に焦がされ、視界が淀んできた。砂丘の曲線が振りおろされる鞭のようにうねっている。男は、よだれをたらし、鼻をたれ、白目を剥いた。その姿はまさに狂人のそれだった。
「おれは、帰る。帰る。帰らせてくれ。父さん、母さん、このジゴクからおれをすくってくれ。」
顎が、疲れて動かなくなってくる。すると、その綿をすりつぶすように、口を閉じたまま歯を擦り合わせた。綿から滲み出てくる液体の苦味は、うっとりするような甘味に変わった。綿を噛むとその甘味が舌に染み込み、尋常じゃない快感を男にもたらす。それは、不気味で、恐ろしい事だった。男は、綿を吐き出そうとして、何度も口をとがらせた。しかし、砂の上に張り付くのは、白濁した唾液のみであり、綿は相変わらず歯の間に挟まっている。噛むことをやめようと思っても、顎が勝手に動く始末だ。
頬を強く引っ叩き、男はなんとか正気に戻ろうとした。汗と砂でべとべとになった体をなんとか持ち上げると再び歩き始めた。
日が暮れかかり、砂丘は豊かなえんじ色に染まり始めた。太陽の光の最後の一粒が、砂丘の尾陵にきらめきながら消える時、谷間に小さな緑の塊を発見した。
男は感嘆した。
「オアシスだ。水が飲める。」
男の歩調は早くなった。歩を進めるたび、緑の塊が大きくなっていく様子がたまらなくうれしかった。日がくれて空が満天の星で埋め尽くされる時、男は緑の塊の目の前までたどり着いた。非常に背の高い、ヤシやソテツが聳え立つのが目につくが、そればかりで無く、三手に分かれた葉を全身に纏った常緑樹も肩身を寄せ合って空に伸びていた。まるで、ジャングルである。夜の深い影も相まって、襲ってくるような、それでいて中に引き込もうとするような迫力があった。男は喉が渇きすぎていた。そのため、木の幹から染み出す水分をも吸い尽くさんとばかりに、オアシスに飛び込んで行った。
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