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小説|罠 ④/4


↑前回のお話

地面に膝立ちになって、両手を合わせ、ひたすら呪文のように何かをつぶやく。この特異な儀式は、夜明けまで続けられた。

男は、タムシバの花弁に宿っているであろう女の魂を深く信じ、それに自分の全運命を託していた。もはや自力では、この穴から抜け出すことはできないと悟った今、かすかな希望を見出すことができるのは唯一この花弁だけだった。

男は目を閉じて、頭のなかに思い描いたかつての恋人に、ひたすら愛の言葉を語りかけていた。

言葉ひとつひとつが口の中から生まれ出るたびに、男は自分の体が清められ、運命を司る大きな力に、決して暗くない未来へと導かれるような気がした。荒い息はしだいに整えられ、空が薄緑色になり、ヒヨドリが鳴き始める早朝には、すずしい空気が全身をかけめぐり、空気と肌がぴったりとひとつになっているのを感じた。

狭くるしい穴の中は、むしろ森の喧騒から離れた静謐な空間のように感じ、居心地の良さすら感じ始めた。

おれは、助かる。

その確信が、男の中に芽生えてきた。おれは今、なにかとても大きな力に通じているんだ。おれは、例えこの場所から一歩も動かなかったにしろ、おれを愛し、抱きしめてくれた彼女の魂がおれをこの穴から引き上げてくれるんだ。

男は汚れきった腰巻きをさらさらと解くと、それで体を磨き始めた。力一杯擦ったため、いくつも細い糸のような垢が、茶色い皮膚から吹き出してきた。

小一時間ほど磨くと、男の体は玉のように白くなった。無骨で逞しい本来の印象から一転し、陶磁器のように冷たく、繊細になった。今までは、肉の鎧に身を固め、壊れやすい心を隠していたが、垢を落とすことで、それが取り払われ、冷たく発光する心が、にゅるりと溢れ出してきたようだった。

白く光り出した男の体は清潔で、土埃ひとつつかなかった。男は、穴の中に転がっている石を列にして並べていった。サークル状に並べられた石の中に座り込み、あぐらをかいて座った。目を閉じると、運命の女神が、優しく微笑んでくれているように感じた。

身の回りが美しく整えられていったことで、目に映るもの全てがくっきりと輪郭を持ち始めた。土壁を這う蟻の忙しい動きが、いつもより滑らかに見えた。

全ては、俺がくだらない生活をしていたのが悪かったんだ。この穴に落とされたのは、そのツケが回ってきたんだ。あの子を、怒らせてしまったんだ…

男は、今までの臆病でだらしの無かった生活を恥じた。過ぎ去った時間を、いまさら生き直すことなどできないので、男はその気持ちを持て余し、やりきれなさを身の回りを整えることで発散しようとした。

しかし、おれは許された。穴に突き落とされ、苦しみを味わいながらも、おれは自分の精神と体を磨き、鍛え直したんだ。全てはこれで終わるはずだ。オレは許されたんだ!

その時頭上から、落ち葉が踏みしめられる乾いた音が聞こえてきた。男は全身に冷や水を浴びせられたような心地がして、すっかり肩をすくめてしまった。

その足音は、一歩一歩穴の方へ近づいてくる。男は、女神に祈った。目を閉じ、ひたすら彼女が自分の元に駆けつけ、引き上げてくれることを祈った。

血の気が引いて、まるで自分が泥人形になったようだ。全身の毛穴から冷たい汗が吹き出し、それがなめくじのように男の肌を伝っていく。

足音がもうすぐそこまできているのがよくわかった。落ち葉がふわりふわりと捲れ上がり、蛇のようにうねり、しかし確実に獲物のもとへ続く道を作っていく。歩き方は、不規則で病的な不気味さがあった。

穴からそう遠く無いところまできた時、足音はぴたりと止んだ。男は息を飲んだ。世界が一瞬にして凍りついたような静寂が生まれた。

音を立ててはいけない、その思いから全身の筋肉は硬直した。今、耳元で鳴っているのは、自分の心臓の鼓動の音、そして汗が額を伝う音だけだ。心臓は激しく脈打ち、まるで泣き喚く子供を胸の中に宿しているような気分になった。耳は、落ち葉が踏まれる音に全神経が向けられていた。男はむしろ、その音を渇望しているかのようだった。

ガサッ

心臓がもぎ取られるほど、仰天した。内臓が激しく痙攣し、冷や汗は、ところてんのように全身の毛穴から一気に外へ押し出された。思考は、熱に浮かされたようになってしどろもどろだ。

穴の側で、あの喉に痰がひっからまったような叫び声がけたたましく響いた。名前のわからぬ鳥である。落ち葉を踏んだのは、どうやらこの鳥らしかった。

激しい叫び声が散ると、空気をぶわりと仰ぐ羽音が聞こえた。丸い空に鳥の姿が現れ、ゆっくりと円を描いて上空に登っていった。鳥はゆったりと雲の間を漂っていた。











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