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小説|仮面の処刑①

プロローグ

 彼と出会ったのは、もう五年前になる。

 私は都内の大学を卒業した後、都会の喧騒に嫌気がさして、田舎でゆとりのある生活を送ることを夢見て、山陰地方のとある旅館に就職した。求人情報の下調べもそこそこに面接を受ける会社を決めてしまったので、特にこの会社には思い入れもなく、入社しても親密な関係を作ることはないだろうと考えていた。
 
 入社式の朝、寝坊してそそくさとスーツを引っ張り出し急いで着替えて旅館に向かった。地元から遠く離れた場所ということもあり、現地に着くまでとても苦労した。温泉街の通りを乱れたスーツ姿で走っていると、桂翠と書かれた看板と、旅館の建物が見えた。急いでロビーに駆け込むと、五、六人の男女がソファーのような形の椅子に座っていて、そのそばに着物姿の女性が立っていた。腕時計を見ると、五分遅刻だった。きまり悪い思いで椅子に腰掛けると、同期らしい男女からチラと冷たい視線を投げかけられた。私は会釈もせず下を向いて、池の水面と色とりどりの花の模様があしらわれた絨毯を見つめていた。

 このような視線を今まで何度も浴びてきた。人を刺すような冷たい視線。世の中で勝手に決められたルールから少しでもはみ出たとたん狂人を見るかのような視線が飛んでくる。そもそも社会に存在するルールがどんな意味を持つのかしっかりと自分の頭で考えることもなく、ただ与えられたものを享受しているだけなのに、どうして自分が正常だと思い込むのだろう。そういう人は、大抵濁った生気のない目をしていることが多い。この目が嫌で田舎に来たのに…。ここでもまた同じことか、と塞ぎ込んだ気持ちになっていると、先ほど自分が入ってきた自動ドアが開く音がした。振り返ると、栗色のパーマがかかった髪を上下に揺らしながら、少し小柄なスーツ姿の男が息を切らしながら入ってくるのが見えた。自分以外にも入社式に遅刻する人がいるのか、と呆れてその男のことを見ていると、着物の女性のところへ駆け寄って直立し、
 「ドウモ、スミマセン。ちょっと寝坊しちゃいまして。」と幼稚な言葉使いで謝罪した。決して、ふざけているという風には見えなかった。おそらく本当に寝坊して遅刻したのだろう。彼にとっては、その事実を正直に言っているに過ぎないのかもしれない。事実彼の顔は真剣そのものだった。しかし、会社の人に大事な第一印象を持たれるこの場において、馬鹿正直にそのことを伝えてしまう彼の少し間の抜けたところとどこか憎めない姿を見て、私は咄嗟にこの男の波乱に満ちた人生を透かして見た気がした。

 着物の女性は少し面食らった様子で、「まあ、いいですから。これからは気をつけてください」と軽く彼をあしらい、奥の廊下の方に消えていった。男は私の目の前に座った。緊張しているのか、周りをキョロキョロ見て落ち着きのない様子だった。元々人と関わる気など毛頭なかった私なので、彼と目を合わせることもなく、それでも少し気になって彼の黒ずんだワイシャツの袖をぼんやり眺めていると、
 「あの、僕、末永白(はく)って言います。よろしく」こちらの顔を覗き込んでその男が太陽のように明るい笑顔を向けてきた。よく見ると端正な顔をしている。目が大きくて、鼻筋が通っていて弓形に引き伸ばされた薄い唇はチャーミングだ。甘やかされて育ったのか、ひどく幼くあどけない顔をしている。しかし、目の奥にどこか悲しい光が揺れ動いていた。瞬きの回数が多かったり、口角が痙攣しているところを見ると、相当勇気を出して声をかけてきたことがわかる。
 「僕は吉岡健です。よろしく」私は口早にそう言って、再びそっぽを向いてしまったが、この時に彼から受けた底なしの明るさとその裏に漂う深い悲しみという印象は長く私の中に残った。

 彼と初めて会ってから五年の月日が流れ、私も彼も随分取り巻く環境が変わった。私は旅館の仕事をやめてバイトで食い繋ぎながら取り止めのない日々を送っていた。彼も、私より少し早く仕事をやめており、どうやら上京したらしいという噂は聞いたけれど、彼からはなんの音沙汰もなく、私も時々ふとした瞬間に彼のことを思い出す程度になっていた。ところが1ヶ月ほど前の年の暮れに、突然彼から連絡がきた。話したいことがあるので、どこかで会えないかということだった。私は断る理由も無いし、時間を持て余してもいたので、旧交を温めるいい機会だと思い快く提案を引き受けた。

 その日は今季初めての雪が降り、積雪して山陰の湿っぽい雪の絨毯に靴が濡れ、それでも雪を被った低い街並みの光景に心踊る日だった。私たちは、元職場である旅館の前の古民家カフェで五年ぶりに顔を合わせた。彼は以前とは比較にならないほどやつれていた。頬はこけ、目は落ち窪み、顔色は緑がかって見えた。ほつれて毛玉の多くついた茶色のセーターに、よれよれの綿でできた抹茶色の羽織を重ね着している。下は膝の辺りが裂けたジーンズで、汚れて黒ずんだ白いスニーカーを履いていた。寒さにがたがた震え、綿の羽織をちぎれるほど前に引っ張って、体を屈めていた。ひどく惨めだった。そんな彼からどんな話が出てくるのか、と内心不安で仕方なかったが店内の明るく暖房が効いた部屋で熱いコーヒーを飲みながら、お互いの近況などを交換しているうちに、彼の表情はほころんでいき、ああ、この人はただ寂しかっただけなんだ、ということに気づいた。

 彼の口からは、私の心を揺さぶるような話が次々と飛び出した。彼は自分の半生について私に語ることで、どうやら自分の気持ちを整理しようとしているようだった。彼の話は、人間の醜さ、強さ、そして儚さにまで触れているような気がしたため、私は後日彼の話を思い出せる限り正確に文章に起こしてみた。この私の駄文をどうやら面白がってくれる人もいたようで、ブログで密かな反響を呼び、書籍化というところまで行き着いた。書籍化にあたって多くの人のご協力をいただいた。諸氏に感謝の意を伝えたい。



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