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伝統意識に潜むダンディズム 〜大江健三郎 『奇妙な仕事』を読んで〜

先日、大江健三郎の『奇妙な仕事』を読んだ。大江健三郎は、昭和中期から活躍している現代文学作家だ。長い間、読もう読もうと思うも、なかなか手がつけれなかった作家である。けれど、社会的な問題に切り込むセンセーショナルな作風は、噂で聞いていたので、今回ページをめくる時、期待に胸がおどった。

さて、『奇妙な仕事』は、大江文学の最初期に書かれた短編作品だ。大江健三郎は、この短編を大学在学中に書いている。

大学のアルバイト募集の広告に、犬殺しという奇妙なものがあり、お金を欲していた主人公は、それをすることに決める。バイトの内容は、病院で実験用に飼っていた150匹の犬を、予算削減のために、殺処分するというものだった。主人公は、犬を処理するための囲いに、犬を引いていくことが主な仕事であり、実際に犬を殺すのは、”犬殺し”と呼ばれる、別の人間だった。彼は、棒で犬を殴り、ナイフで息の根を止めるという極めて残酷なやり方で犬を次々と殺していく。それを見て、主人公、または主人公と一緒にバイトを引き受けた女子学生や院生の男は、鬱屈とした気持ちを感じるのだった…

この作品の魅力は、極めて刺激的な、ぎりぎりを攻めたテーマ性だ。犬殺しという一般的ではない仕事を取り上げることにより、鑑賞者を強く惹きつけている。この作品には、”伝統意識”という言葉が出てくる。この言葉は、この作品の根底を貫いている言葉だ。

犬を極めて残酷なやり方で殺していく”犬殺し”は、ある誇りを持っていることがわかる。それは、犬を毒で殺さず、あえて棒とナイフで殺しているということだ。つまり、薬物を使って殺すという汚いやり方ではなく、棒を使って、真正面から犬を殺すということの方が、潔く堂々としていて、犬にとっても、その方が幸せだろうという理屈だ。主人公は、そのことに対して、違和感を感じている。ここに現代の価値観と、伝統意識の相剋が見られる。

伝統意識というものは、真っ直ぐで潔い。そこには、鮮やかなダンディズムがある。しかし、その論理は、首尾一貫しており、時に盲目的になりやすい。現代の医療の発達、科学の発達に対して奇妙さを感じ、それについて反発する伝統意識には、奇妙さ、というものがないのか?いや、そうではないだろう。伝統も、より前の時代では、現代医療、科学と同じような立ち位置にあったはずだ。いわば、伝統意識というのは、個人の美学だ。そこに他者への視点が欠落しているように思う。痛み、という点でいえば、薬で殺されるより、棒とナイフで殺されることの方が、よっぽど犬にとっては恐ろしいはずだ。

文化は、常に変化していく。そのことに対して、闇雲に批判するのではなく、別の視点の在り方を見つけることが、文化の健全な発展には必要不可欠だろう。


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