教育とは何かそして何であるべきか

STEAM教育、主権者教育、金融教育、キャリア教育……〇〇教育というものが溢れかえっている。
日々の業務の中で、あれをやりましょう、これをやりましょう……どれもこれも大事なのはわかるのだが、果たして、それを私たちはやるべきなのか?と問い直したくなる。こういうとき私は、根本に立ち返りたくなる。すなわち、教育とは何か、という問いにいきつく。

この問いを深める方向性はいくつか考えられる。その中でも、私は「良い定義」に興味がある。定義は、そこから様々な考え方が導けたり、現場に活力を与えたりするものの方が良い。そうすると、私はどうしても、「教える」という行為から話を始めたくなる。

昨今では、教えない授業、というようなワードが頻回に耳目に触れる。生徒が自律的に学習に向かうことが良いことだと言うのだ。
別に、それを否定はしない。もちろん、生徒が自らの内発的な動機に基づいて、自ら主体的に学ぶことは善いことだろう。
しかし、どうも「教える」という行為を全否定するような、反「教える」主義のようなものを感じることが多く、それには違和感がある。
「教える」という行為をあまりに一面的に、矮小化して捉えてやしないか?
反「教える」主義の文脈では、「教える」と言う行為を「対象への押し付けがましい情報伝達」ぐらいに捉えているように見えてならない(まぁ、これは私の偏見かもしれないが)。「教える」行為はもっと人間にとって根源的な行為ではないだろうか。
異国の地から来た人には、日本の作法を教えてあげるだろう。幼い子供には、世界を教えてあげるだろう。
「教える」行為は、わかっている人とわかっていない人の間に自然と発するものだ。
私は、これを不自然に排除した教育など上手くいかないと思う。そもそも、私の想定している「教える」と、最近よくみる「教える」は定義が違うと言うことだ。
そして、狭い意味での「教える」に対するアンチと昨今の流行が変に同調して「教えない授業」の名の下、「生徒と関わらない授業」が展開される……そんな風に見える。
この不毛な状態を脱するため、ここでは「教える」について定義しておこう。

「教える」という行為は、「目の前にいる新しい人への歓待や贈与」と定義しよう。
これは、人間の共同体で普遍的にみられる行為である。こどもへ、新人へ、弟子へ、転住者へ……わからないことは何でもきいてね、と言った感じだ。これは、学校教育を念頭に置いていない。あくまで、人間の本質的な活動のひとつとして「教える」という行為を定義している。
私の最初の問いは「教育とは何か」だ。それを、良く定義するにはどうするべきか、という方向性で考え、下準備として、より根源的な「教える」という行為を定義づけた。
次なる準備は「学び」の定義だ。

「学び」と言う言葉も、ドリル的な学習から、豊かな経験まで、とても多義的に捉えられている。その多義性が、議論を進める際にはややもすると邪魔になる。「教える」のとき同様、素朴に、プリミティブな定義を採用したい。
ここで私は「学び」を「わからなかったことがわかるようになること」と定義しておきたい。
子どもが言葉を習得するように、乗れなかった自転車が乗れるようになるように、それまで想像できなかった、みえなかった、わからなかったものがわかるようになる体験。そしてそれは、不可逆な変化。わからなかったときの自分にはもう戻れないような。これを学びと呼びたい。

上のように「教える」と「学び」を定義づけておくと、すぐに気づくのは「教える」と「学び」には独立性があるということだ。
良く考えてみれば当然なのだが、教えたからといって学ぶわけではないし、教えられなくたって学ぶこともある。
「教える」と「学ぶ」は無関係に存在している。しかし、それらが呼応し合う瞬間にも私たちは出会っているはずだ。むしろ、それにこそ出会いたかったはずだ。

以上を踏まえ、私は、教育とは「学びを意図し、計画的に教えること」であると定義したい。
「教える」も「学ぶ」も、今回の定義では、普遍的で、人間社会のあらゆる場所で起きている。ありふれた現象だ。それを人為的に起こそうというのが教育なのだ。意図性、計画性が織り込まれていることに注意したい。
この定義は、学校教育に限定されたものではない。社員教育、職人教育、生涯教育、すべてを包含している。
また、この定義を採用することで、単に知識を伝達するだけのものは教育とは呼ばない。なぜなら、わからなかったことがわかるようになる次元ではないからだ。知るだけでは、いままで見えなかったものは見えない。浅い知識は、昨今の教育界の課題意識の通り、意味がない。だが、わからないことがわかるようになる過程で必要になる知識を与えることは否定されない。なぜなら、わからないことがわかるようになることを「意図して、計画的に」知識を与えているからだ。

どうだろう。このように、教育を定義しておくことで、議論を前に進めることができる。これが「良い定義」だろう。
ここを出発点に、「公教育」「学校教育」「全日制普通科教育」なども考えていくと、様々なことが導けるだろうし、学校での活動を見直す上でもブレずに済むのではないだろうか。

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