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夢に向かって学校を選択する〜高校編

小中学校編に続いて、高校編です。
高校になると、先生との付き合いもこれまでより希薄になった。
理想より現実、という形に誘導されていく。

理想と現実のはざまで

新たに設立された情報科学科

ずっと進学校の理数科への進学を考えていたけど、「医者になるの?」と言われたことから迷い始めた。
理科・数学・英語が好きで面白くて、もっと勉強して大学に行くつもりだったんだけど。

当時(1990年ごろ)はコンピュータがよく話題になっていて、近くの商業高校に情報科学科という先進的な学科が設立される、と聞いて心が揺さぶられた。
来るべき高度情報化社会に対応するために、電気やハードウェアなど、コンピュータをより専門的に学ぶ学科が必要とされる、ということである。

新しい時代の幕開け、これからは自分たちが主役に、という華々しいイメージをもったまま、高校へ進学した。
同級生にも同じように考えていた仲間が多くおり、これは面白い高校生活が過ごせるな、と期待していた。3年後が楽しみ、だった。

歴史と実績の情報処理科 vs 新設の情報科学科

商業高校には情報科目を学ぶ「情報処理科」がすでにあった。
簿記などの他に、事務処理をOA化するためのプログラミング(COBOL)などを学び、金融機関や電力会社、大手IT企業にエンジニアとして就職する人を輩出していた。

歴史と実績があるまさにピークを迎えている情報処理科、今後に向けて期待される情報科学科。
この情報を学ぶ2つの学科は、テストの平均点や検定試験の合格率などでも比較されることが多かった。
違うことを学んでいるのに比較される、なかなか受け入れ難い現実。

授業内容にも大きな違いがあった。
実績がある情報処理科では、過去の取り組みから少しずつ修正を重ねていき、充実したカリキュラムが構成されていた。
私たちの情報科学科では、全く新たなカリキュラムが構成され、科目の内容や科目間連携なども手探りの中でスタートしていた。
4月に説明を受けた内容とは異なる形で進むことも多くあり、次の時間は何をするんだろう、という不信感が徐々に高まっていった。
それは担当の先生だけでなく、担任の先生や学校全体に対しても同様だった。
1年後や2年後の姿も予想がつかず、不安と不信が渦巻く高校生活は、入学前に思い描いていたものとは大きく異なり、楽しめるものではなかった。
順調に学習を積み重ねていく隣のクラスを横目に見るのがさらに追い打ちをかけ、辛さが膨らんでいった。
1年生の2学期には、自分の進路選択が間違っていたのではないかと考えるようになり、その思いはずっと抱えたまま過ごした。

高3の進路選択

3年生になって、情報に関して学びたかった私たちは目標も曖昧になり、進路選択についても動揺があった。
担任は異動して来られたばかりの先生で、ベテラン商業科の先生だけれども情報科目はほとんど分からない。
前任校で進路指導主事をしていたことで、異動後すぐに私たち新学科の3年担任になったそうだ。(あとで同僚になった際に教えてもらった)
情報分野の進路開拓などは期待できず、大学進学や公務員就職の方向で進路が決められていった。

情報に関する学科が増える(1→2)ことは、就職先や進学先も2倍になることを考慮しないといけない。
けれども当時の学校では、そこまでの準備ができなかった。
しなかったのではなく、できなかった。
新しい学科や学校を創るのは県教委主導でも、3年後の進路先を見据えて生徒を育成していくのは現場の先生方。
ノウハウもリソースも不足し、頼るところもない中では、目の前の授業で精一杯。

結果、私のクラスでは公務員合格を多く輩出することになる。
真面目で学力があり、やりたいことが曖昧な人にとって、最強の就職先だった。
とはいえ、華々しく設立された新学科の進路先としてその後の混乱に拍車をかける結果につながっていった。

私はもう一度情報を学び直しに行くか、と専門学校への進学を考えていたが、担任の先生から大学進学を勧められ、親と相談することになった。
そのときに話題に出たのが「商業科の教員」である。

高3の夏〜受験に向けて

大学進学に向けた大きなハードルが受験の壁だった。
商業高校からの大学進学は少なく、大学側にも今のような受験機会が用意されておらず、基本的に学力試験(国・英)で合否が決まるものだった。
資格を多く取得していれば違ったのだが、私の学科はそもそも多く取れないカリキュラムだったこともあって、うまく条件に当てはまらなかった。

9月にある全商英検の1級に受ければもしかしたら大学合格の可能性があるかも、という話になり、受検することになった。
周囲の友だちは夏休みで遊んだり、学園祭準備で忙しかったりする中で、暑い教室で汗だくになって補習を数回受けた。
あとは問題集を解いたり、リスニングCDを聴いたりして、自分で学習を進めた。
高校3年間でまともに勉強したのは、たぶんこのときぐらい。
ふだんの定期試験は部活が休みになるので、ゲームしたり遊んでばっかりいたし、検定試験もふだん授業できちんとやっていれば特に対策しなくても合格するものだった。
でもさすがに英検は、授業で対策をやっているわけでもないし、知らない単語もたくさんあったので、一つずつやっていかなければいけなかった。
でもあまり辛くなくて、むしろ勉強することの楽しさを久しぶりに味わった気がした。

合格発表の際に、1級合格者1名、とあって驚いた。
自分は受かる自信があったけど、ずっとクラスで1位だった友だちも受けていたので、まさか自分だけとは思っていなかった。
その子はちょうど公務員試験がすぐ後に迫っていたので、検定対策がそれほどできなかったようだ。結果発表のときに「おめでとう、すごいね」と声をかけてくれたのを今でも覚えている。(ちなみに彼女は公務員試験にはちゃんと受かりました)

ダメだったら専門学校でいいや、と思っていたけど、このことがきっかけで「学校の代表として頑張らないといけん」という自覚が生まれた気がする。

教員を目指して

自分が教員になったら、
商業の授業をもっと面白くしたい
商業らしい進路にもっと進ませたい
高校生活をもっと楽しくしたい
もっと面白い学校にしていきたい

自分だけでなく高校生活を一緒に過ごした仲間を見ていて、そう感じた。
商業や情報の学習内容がそもそもつまらないわけではなく、むしろ将来の可能性を感じさせる興味深い内容だと思っていた。
個々の先生方ではよく頑張っておられたと感じるけれども、全体としていろいろうまくいっていなかったんだと思う。

ほんとつまらない高校生活だったけれども、もっと早く自分自身で努力していけばよかった。
周囲の足りない部分に卑屈になって拗ねた高校生活を過ごしても、もったいなかった。
自分で切り拓く勇気がなかっただけだと思う。
教員になってからはずっとこの想いをもって、新たな挑戦をし続けてきた。
失敗したり苦労したりすることも多かったけど、協力してくれる仲間がいてくれて、とっても楽しかった。

誰かがやるなら自分がやる、失敗してもいいからやらせてください
そんな気持ちでやってみると面白かった。

そう思えるようになったのは、あんな高校生活だったからかもしれんので、それはそれでよかったのかもしれない。

まとめ

一日の生活時間で最も長く接する大人である「学校の先生」。
幼保・小・中・高と発達段階に応じて関わり方や影響の受け方はそれぞれ異なる。

何も知らなかった私でさえ、出会った先生からの情報提供で視野が広がったり、かけられた言葉で遠い世界が近く感じられたり、そういったことで未知の世界へ進むエネルギーをいただいた。

先生方には教育のプロとして
・子どもたちに知らない世界を教えてほしい
・子どもたちの可能性を伸ばす方法を模索してほしい
・子どもたちをしっかり応援してほしい
・自分で学ぶ努力を続けてほしい
・地域で一番魅力的な人になってほしい
などと勝手に思っています。

なにより
「学ぶことの面白さ」
「生きることの面白さ」
を子どもたちに伝えていただければ、きっと楽しい社会が作られる気がしています。

私自身もできることを模索して頑張ってみようと思います。

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