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TRUMPシリーズ『COCOON』|ダフネの観劇日記

末満健一さん脚本のTRUMPシリーズ、今年の新作である『COCOON』。月の翳り編・星ひとつ編のどちらも観劇。感想と感傷が溢れて止まらないのでnoteにまとめることにした。

こちらは月の翳り編についてまとめた。注意書きの先にはネタバレがあるので、観劇していない人はご注意。

TRUMPシリーズの美しさ

TRUMP(トランプ)シリーズは、人間の亜種である吸血種・ヴァンプのお話。吸血種の始祖であり永遠の命を持つという誠なる吸血種・TRUMP(True of Vamp)と、人間種で言うところの思春期である「繭期」をむかえた少年少女たちを中心にストーリーが展開される。

ハリーポッターシリーズで、魔法使いと人間の間に生まれた者が「マグル生まれ」と蔑視されるように、吸血種と人間種の混ざり子は「ダンピール」と呼ばれ嫌煙されており、このシリーズを構成する重要な鍵になっている。

TRUMPシリーズは、残酷劇とも銘打たれるほど「残酷さ」が売りのひとつだが、それは血が流され人が死ぬというスプラッタ的な残酷さではない。第1作目を起点に、作品毎に時間軸が10年前に戻ったり、800年後に進んだりするため、われわれ観客は、時として、登場人物たちを待つ受け入れがたい未来を知りながら観なければならない。彼らを待ち受けるものは、死、孤独、呪い、裏切り、執着、別離などの、さまざまな哀しみや絶望。そして、われわれはただそれを見守ることしかできない虚無感。この構造が、ただひたすらに残酷なのである。

その虚無な残酷さは、観劇を重ねるたびに、われわれの記憶の中に降り積もり、振り返れば地層のような美しさを呈している。その美しさに追い打ちをかけるかのような、美しい演者たち、神秘的な音楽、衣装やセットが作りだす耽美的な世界観。気づいたころにはTRUMPという総合芸術の檻に囚われてゆく。

今回の新作『COCOON 月の翳り、星ひとつ』

シリーズ1作目『TRUMP』の主要人物・ウルの兄であるラファエロと、そのライバルであるアンジェリコの2人にスポットライトが当てられており、時間軸は『TRUMP』の6年ほど前に位置している。かつては友人同士だったというこの2人が、なぜシリーズ1作目で互いを強く憎むまでになったのか、その原因となった事件を中心にストーリーが進む。

もともと予告で公開されていたのは、これくらいの情報だった。公演が近づいても、キャスト名は公開されても登場人物名は明かされず、写真も、繭に包まれたような演者たちがこちらを見つめるコンセプトフォトしか公開されていなかった。いったいラファエロとアンジェリコ以外の誰が出てくるんだ。

月の陰り編、星ひとつ編の2編は単なる演者の入れ替えなのかと思っていたが、末満さんがTwitterで「全く別のもの」と発言していたため、必死で2公演分のチケットを押さえた。

ネタバレにならない程度に言うが、2年前の作品『グランギニョル』がお好きだという人は、ゼッッッッタイ見たほうが良い。どっちも。ハロオタの友人に勧められてたまたま見た『LILIUM』のDVDで沼に引きずり込まれ、舞台観劇がグランギニョルからだったからかもしれないが、とくにグランギニョルが好きだ。最後のシーンでぼろぼろに泣いていた。ちなみに、今回もぼろんぼろんに泣いた。

もう一度言う、グランギニョル好きな人、まだ大阪公演中だから当日券へGO。


(以下、ネタバレにつき注意)


わたしの中にもドナテルロがいる

苦しく息苦しく抑圧された思春期の中で、自分らしさを隠さない友人のグスタフが、うらやましい。できるなら自分も彼になりたい。それができないなら、せめて美しい彼をそばで見ていたい。だから、ずっと変わらないでいてほしい。そのためなら永遠に思春期だって構わない。

そんな、ティーチャー・ドナテルロの気持ちに、わたしも少し覚えがあった。

友達に笑われないように、流行は知っておかないと。先輩に気に入られるようにカワイイ手紙を書かなきゃ。良い高校に入るためには、内申点がいるんだから、真面目にしないとね。公園のターザンロープで遊ぶなんてこどもっぽいことは卒業しなきゃ。音楽もアニメソングはやめて、ちゃんとMステ見て、aikoくらいは聴いとこう。ああ、修学旅行のグループ分けではみ出さないように、友達に声かけとかないと。スカートの丈は......髪のくくり方は......カバンにつけるぬいぐるみの数は......。

どうしてこんなにめんどくさいんだ。なんで誰かと一緒にお手洗いなんて行かなきゃダメなんだ。どうして自分の好きなようにしちゃダメなんだ。でも、笑われたくない、バカにされたくない、ひとりにはなりたくない。

中学2年生くらいのわたしはいつもそう思っていて、苦しかった。男の子たちは、好きなギャグマンガを堂々と貸し合いっ子したり、教室のど真ん中でヘンテコな歌に合わせて踊ったり、こどもっぽいけど、自分がしたいことをしているように見えて、羨ましかった。その度に、「女子なんてめんどくさいことはやめて、わたしは男子になる」と宣言しては周りの友人を困らせた。でも、もちろん男子にはなれない。だって、わたしは男子になりたいわけではなく、自由になりたかったのだ。

きっとわたしは、繭期のティーチャー・ドナテルロと同じだった。

そんな中で、ひとりの友人と出会った。大人になった今でも付き合いのある友人だが、彼女は自由だった。模範的で常識的を良しとする世界に生きるわたしから見て、ありえない女子生徒だった。

授業中はずっと寝ているか、落書きか空想をしている。大事なテストの前日に、読書に夢中で朝を迎えてしまうこともしばしば。もちろんテストの点数は散々だが、全然気にしない。制服はあれこれ手を加えずそのままサラッと着るし、髪は飾り気なくざっくり結ぶだけ。こどもっぽいキャラクターの鞄も使う。雨の日は傘を差さずに歩くのが好きと言ってびしょびしょで家に帰っていく。「屋根に登って夕日を見ようよ!」などと言い出して本当に連れていかれたこともある。

だけど、彼女は音楽がうまかった。明るくて、弾むような音色と旋律。技術のことはよくわからなかったけど、きっと彼女は学校で誰よりも、音楽がうまかった。それは、彼女が何かに縛られない自由さから来ているような気がして、羨ましかった。自分がどんなに技術を研いても、そこにはたどり着けない気がした。

ティーチャー・ドナテルロにとっての、自由の象徴がグスタフだったように、私にとっては彼女が自由の象徴だった。

それから時は経ち、いくらか大人になり、今のわたしはどちらかといえば自由に生きている。もちろん、規範や常識の範囲の中ではあるけれど、うまく折り合いをつけて共存し合えるようになった。

そして彼女は今、奇しくも中学校のティーチャーをしているのである。学校というところには、大人になってもいろいろと守らなければならない規則や風習があるらしく、「大変だよ、でも仕事だからね」と疲れた顔で彼女は笑う。

わたしたちは大人になったのだ。これからもきっといろんな経験をするし、いろんな人に出会うだろうから、今よりもっと美しくなれるかもしれないけれど、あのころの美しさは、きっともう手に入らない。それを思うと、ちょっぴり悲しい。

ドナテルロ先生。いつか、わたしや彼女がすべてに絶望するようなことがあって、あの頃の美しさに縋りたくなったら、そのときはきっと、COCOONのおくすりを処方してくださいね。

(Photo by Pexels on Pixabay)

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