音楽が世界の共通言語ではないということについて⑤
音楽学大学院生の週一アウトプット*39
今回はかなり前のアウトプットの続きを書いていこうと思う。
前回のものはこちらから↓
前回のアウトプット(といってもかなり前の回になるのだが。)では最後に「音楽文化において受容者と供給者が異なり遠く離れてもその需要に答えている場合がある」と書いた。このように言い表すと周りくどくてわかりにくいかもしれない。しかし、このような場合というのは、現代の大衆音楽に当てはまる。
例えば、K-POPは世界的に人気を博している。現代において、音楽の市場もインターネットを介した国際的市場を基盤にしていることが多い。また、ボサノバの演奏が人々に知られるようになり、ブラジル以外にたくさんそれを聴きたがる人、ボサノバ愛好者が世界中にいて、その需要に応えるライブがたくさん行われるようになる。単にこれをグローバル化の一つと呼んでもよいかもしれない。
もう一つ「音楽は他の文化とどのような点が違ったことで世界的に理解されうるものだという意見が生じたのか」ということに対して考えうる大きな理由がある。それは、受容スタイルである。以下にその特徴を四つあげる。
音楽の受容スタイルにおいて、このような他の文化との特徴的な違いが存在する。音楽の受容スタイルは非常に裾野が広く、人々が能動的に音楽を享受しに行かずとも、水のようにするすると何食わぬ顔で人々の生活に入り込んできている。それでいて、解釈の方向性も定められていることは稀であり、基本的に開かれている。
単に「グローバル化社会における音楽」として説明しようとも、音楽の持つ様々な特徴を乱雑にまとめてグローバル化という文脈に落とし込んで説明することは不可能だと私は感じる。しかし、このように一つ一つその性質を論っていくと、「音楽は世界共通言語である」と言いたくなる感覚の要因などが少しずつわかってくる。
これまでで、アンチテーゼをどうにかサポートし解釈しようと努めてきたつもりだ。ということで、次回はこのタイトルの主張を再確認してまとめとしようと思う。
FALL
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