音楽が世界の共通言語ではないということについて④
音楽学大学院生の週一アウトプット*31
先週は少し違う話題を挟んだが、今週のアウトプットは再びこのテーマに戻る。前回のアウトプットはこちら↓
少し前回から時間が空いてしまったので、前回の内容をまとめると、音楽の理解を言語の理解と同じように定義して考えてみたところ、演奏者が音で表したものを聴き手が演奏者と同じように認識するということが音楽の理解ということになった。
それでは、とある国の音楽が言語も違う異国で聞かれた場合を考えてみる。この場合、例えその国でその音楽(曲)が多くの人に大いに受け入れられていたとしても、偶然を除けば、上記の理解はされていることにはならないだろう。なぜなら、受容側に演奏者または作者との文化的背景が共有されていないから。
これはつまりどういうことかというと、短調で構成された曲を聴いて悲しい雰囲気と思うのは西洋音楽の文化圏に属する文化的背景を持った人がその音楽を聴いた場合に限る。他のある地域圏では短調に相当する構成音で別のものを思い起こす、つまり悲しい感じを思い起こさないのである。
これが何を意味するのか。音楽は、世界中で統一されうるものではなく、食文化、服飾文化などと同じようにその地域ごとに異なり、また独自に混ざり合ったりして発展してきたのもであるということである。
それでは、音楽は他の文化とどのような点が違ったことで世界的に理解されうるものだという意見が生じたのか。それは、受容者と供給者の関係性にあると私は考える。
例えば、食文化。これは生活に必需のものであり、必ずそれぞれの地でそれぞれの集団で持ち得る。全ての人が受容者であり多くの人が供給者となり得る。また受容者と供給者が同じである場合が多い。遠く離れた地までの供給は大体の場合その需要にそぐわない。
それに対して音楽文化はどうだろう。音楽は生活を豊かにする娯楽、または生活の中の儀礼に組み込まれる。さまざまなケースがあるが、これには受容者と供給者が異なり、遠く離れてもその需要に答えている場合がある。
それについて続きをまた次回。
FALL
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