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VINTAGE【生きにくい世の中に】⑮

インフルエンザの流行が恒例行事のようにテレビで流れている。うがい手洗いは小学校の時に教わったはずなのに、いざ社会に飛び出ると、そんなことを意識して実行することなどない……。のは自分だけであろうか。3月初旬。暦の上では春。だが寒空は相変わらず。大学生にとっては有り余る時間をアルバイトを中心に自分探しに使う時間であろうか。今日も春季休業中のボクはいつものようにVintageにいた。

「夕方になると、いつも底冷えしますね」

「そうねぇ。まだまだ寒いからねぇ」

煙草の煙を漂わせながら、マスターはただぼんやりと外を眺める。ピザトーストをゆっくりと食べながら、脂っこいチーズをイタリアンコーヒーで流し込む。

「そういえば、○○さん、最近見ないですね」

カウンターのお菓子コーナーが空のまま……しばらく何も入っていない。いつも作ってくれる人がいるはずなのだが……。

「……うん。最近体調が悪いみたいだね」

そうなのか。まぁ、季節がらインフルエンザなのかもしれないが、少し心配だ。彼女の洋菓子は重厚な味でとても美味しい。特にアルコールの強いフルーツ菓子は自分にとても強い衝撃を与えた。

アルコールの飲めない自分にとってウイスキーボンボンのようなチョコレートでも好んでは食べないのだが、彼女の作る洋菓子はアルコールの強さとフルーツの風味がよくからんでいて、とても複雑な味わい。下戸である自分にとっては食べにくいことは間違いないのだが、果物の甘みが強調されて、コーヒーによく合い、自分にはお気に入りのお菓子の一つだった。


「そうですか……心配ですね」

何事もなく、寂しくなったカウンターテーブルを見つめていると、Sさんが自転車に乗って現れた。くたびれた様子でフラフラしながら入ってきた。

「やぁ……あの、ブレンドを」

「はい」

マスターといつも通りのやり取りをすると、ふと自分のほうから話しかけた。

「〇〇さん。体調崩したみたいですね。カウンターにお菓子がないと少し寂しいですね」

すると、彼の答えは意外だった。

「ストレスの多い世の中だからね。体調管理も自分だけではどうしようもないところもあると思うよ」

「へ?風邪とかなら、防ぎようがないのではないですか」

うがい手洗いのニュースを見ていながら、こうも無知なセリフが自分の口から無意識に出ると、本当に嫌になるのだが、もはや出てしまってはどうしようもない。

すると、Sさんは

「いや、体の抵抗力って心の健康と深くかかわっているからね。日常生活で心がくたびれちゃうと、病気のリスクは上がるよね。ただでさえ生きにくい時代なのに、世の中がまたくだびれる方向に行くと、必死で抵抗する人も出てくるからね。ボクも抵抗できる間は抗おうと思うけど」

何の話をしているのだ?とても大きな話題に発展してしまったが、僕らが生きている現代社会はどうもくたびれるものらしい。確かにそう感じることはあるが、特に疲れたと感じることはない。強いて言えば人間関係だろうか。

「生きにくいことを実感できないことが本当に怖いことだよね」

ハッとした。ボクは知らないうちに疲れて、草臥れて、そして知らない間に弱っていっているのではなかろうか。彼の警鐘はこの国の仕組みや世界がどうしてかくも回っているのかを深く考えさせられる一言となった。かといって、自分が今できることはなにもない……。いや、思いつかないとでも言うべきか。

自分たちがより豊かに生き抜くためには、辛さを実感できる感性と知性を身につけなければならない。つまりは知識を身に付けることが自分を守ることになるということか。


隣で草臥れている彼の言うことはその場では理解できなかったが、寒く暗いアパートに戻ってから、どうしようもない葛藤と自分の無知を責める自責の念に駆られたことは言うまでもない。

後日談

○○さんはまさにそのストレスで体調を崩していたのだった。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》