震災クロニクル(東日本大震災時事日記)3/11~12④

50人前後であろうか、この施設に避難してきた市民は。思ったほど多くない。隣の社会福祉協議会や保線センターにも避難者が多く詰めかけているため、混雑がある程度分散したのか、とにかく、一人一人に行き渡るほどの毛布と枕、寝具各種は間に合ったようだ。事務所には自分を含めたスタッフが二人、テレビをつけて次の指示に備えている。テレビには何度も津波の映像が流れ、本当に鬱陶しい。
時折、大きい余震がきて、その度に館内はどよめいた。

ギュイーンギュイーン!!

携帯の緊急メールの音が館内のあちこちから鳴り響く。

また地震だろうか。いいや、そうじゃない。電波が微弱、混線していたので、届かなかったメールが深夜の比較的混線していない時間にたまたま届いただけである。すでに緊急メールは本来の昨日を果たしていない。文明の機器もここまでの災害ともなると、ただのおもちゃである。

「もう意味ないよな。」

スタッフの一人が携帯の電源を切った。家族との連絡もつかない。メッセージも送れない。ネットにも繋がらない。時間を確認するなら、壁にかかっている時計で事足りる。すでにスマートフォンは時計よりも役立たずになり果てた。
事務所には自分を含め、スタッフが二人だけ。市役所の職員は市役所で対策本部の指示待ち。本当に大災害になってしまった。ここで、はじめて自分達がおかれている状況の深刻さを痛感した。


つい数時間前のことだ。避難してきた市民の一人が市役所の職員に話しかけてきた。家のローンについてだ。
「どうすればいい……」
勿論、市役所の職員にそんなことが分かるわけがない。
「大丈夫です。日本政府は外国に借金してでも復興関係に予算をさくはずです。だから、安心して。これからの安全だけを考えましょう。」

彼は優しくいなしていた。流石であった。公務員なりの老練さ、いや老獪さが出たのであろうが、そのときの市民の顔を忘れない。不安の中にもふと安堵ににた落ち着きが垣間見えた。

そのときはただの他人事としか私自身受け止められなかったのかもしれない。しかし、夜が更けるにつれ、不安と恐怖で胸が締め付けられそうにもなった。現実に大きい闇が自分達を飲み込もうとしていた。深夜0時を回り、来訪者もほぼいなくなり、静寂が訪れた。たまに来る余震で度々フロア中の会議室のドアが開く音があちこちからした。
バタンバタン!バタン!

ウィーン
ドアの開く音の中に自動ドアが混じっていた。見ると胸の辺りまで泥だらけの50代くらいの男がフラフラでやってきた。

「隣街から、歩いてきました。家は流されて……」

言葉を失った。隣街まで30キロ以上ある。それを歩いてきたというのだ。とても信じられない。この寒空の下、裸足で、歩いてきたというのか。確かに傷だらけで目も当てられない様子だ。しかし、彼の話は真実だった。隣街の避難所が一杯になって、他の避難所を探していたのだという。すぐに、隣の保健センターに連れていった。そこには市役所の職員や医療関係者がいる。避難所にもなっている。とにかく彼を保護してもらおう。すぐに話をつけ、彼には保健センターの避難所に入ってもらうことにした。彼の寂しそうな顔は今でも思い出す。おそらくすべてを失ったのだ。表情には生きている感じがなかった。ただ無機質な表情がそこにあるだけだった。

施設に戻ると市役所の職員が数名事務所に来ていた。支援物資が隣の体育館に届くらしい。体育館に運び入れるのを手伝ってほしいとのことだった。私たちは黙ったまま、外の階段に向かっていた。すると、暗闇からヘッドランプが2つぼんやりとこちらに向かってきたのが分かった。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》