寂しさを言語化出来ないとマズいぞ
あちこちで書いているけれど、自分の孤独とか寂しさを言語化できないと結構マズい。
言語化が必須かどうかと言うか、正しく認識するのに言語化は重要だからだ。
語彙力が少ないと言うか、思考のスコープが狭い子供が、「◯◯ちゃんは××を持っててずるい」と言う言葉で、「羨ましい」と言う気持ちを言語化できないと言うことはよくある。
と言うか、こういう狭いスコープのまま大人になると、自分にとって不利な現象を全て、自分に対する攻撃とか不正とか見なすようになる。
速度超過でパトカーに止められても、「ポリが俺のことを目の敵にしてやがる」とか言うようになる。
そんな時に、「悪いのはお前ではなく社会だ」と言う言葉はよく響くのだ。
同様にして、自分の寂しいと言う気持ちを、上手く自身で認識できないと、その寂しさを掬うビジネスに絡め取られる。
そのビジネスは例えば、ホスクラやキャバクラ、コンカフェかも知れないし、性風俗かも知れないし、ネット配信者や変な宗教やカルトかも知れない。
年寄りが営業の人間と話す為に、毒にも薬にもならないサプリや天然水を高額で購入するとか、そういうビジネスはかなり昔から存在している。
「俺は孤独なのがいいのだ」と言い張る人もいるし、一定数ガチで孤独が気にならない人もいるだろう。
だが、「どーせ今後結婚することもないし、友達も作れる性分じゃないし」と言う意識を、「望んで孤独になっている」として適応してしまうと、まさに先のようなビジネスのカモになる。
「俺は/私は寂しいから貢いでいるのではなく、彼女/彼の夢を応援したいのだ」と言うような言い訳をするようになる。
宗教やカルトも、それによっていい人生を歩めるとか、正義を実現しているのだと言い訳をしているけれども、本質的にはそこに参加している人々との繋がりを感じられるからに他ならない。
自分は本当は寂しいのだと言う事を、きちんと認識できるのかどうか、或いは自分の今行っている行動が、実は寂しさによる行動なのかどうかを認識するのは、とても難しい。
しかし、そこから一歩出て、客観的に自分の寂しさに向き合えば、やれる行動は他にもいくらでも出てくるはずだ。
本当は別に若いお姉ちゃんと話をしなくたっていいんじゃないか?
本当は自分を好きにもなってくれない相手だって分かっているのではないか?
勿論、きちんと認識した上で、その孤独を埋める手段がホスクラやキャバクラしかないと言う可能性だってある。
ぶっちゃけ、実際の彼氏彼女を維持するコストに比べて、お店の子と喋る方がコストやリスクの面で有利と言う場面だってあるだろうから。
自分のお金で自分の寂しさ、自尊心を保つ遊びに興じているのであれば、それは別段何の問題もないことだ。
だが、それがコールセンターにクレームを入れるとか、徒党を組んで迷惑行為に走るとか、そういう方法になってくると、いよいよ自分の人生やより惨めになるのだ。
人生の価値は、自分自身で自分自身の価値を認識することにある。
それが迷惑行為によって充足されると考えるなんて、それこそ「ずるい」と「羨ましい」の区別が付かない子どもと同じではないか?
いい大人になって、その程度の人間だと言うのは、些か寂しい話ではないか?
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