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#44 そこにいるだけで

中山さんが欠勤した昨日の朝は、慌ててオフィスに飛び込んだ。少しでも早く中山さんの状況を知りたかったから。でも今日は慌てずに出勤しようと思っていつも通りに家を出たはずだけど、いつの間にか小走りになっている私がいた。

傘を閉じながら改札を通りホームに上がったときには電車が閉まる瞬間で、吸い込まれるように電車に飛び込んだ。雨のせいで電車が少し遅れていたのかもしれない。いつもより1本早い電車のなかで息が上がっている自分に気付く。やっぱり私、少しでも早く中山さんに会いたいんだ。

駅からオフィスまでも、また早足で歩く。早く着いて、中山さんがオフィスに入ってくる姿をいつも通り見たい。全部がいつも通りだということを確認して安心したい。中山さんに早く会いたい、その気持ちが自然と溢れてくる。

そんなことを思いながらオフィスのロビーに入ったら、後ろから声をかけられた。

「結城さん」

心臓がドクンとする。中山さんの声だ。中山さんがいつもより早い時間に来たらしく、予想していなかった私はすごく驚いた。中山さんの声が耳に響く。会いたいのに会えなかったたった1日で、声でさえもこんなに聞きたかったなんて重症だ。ドキドキする心を鎮めながら後ろを振り向く。ここはオフィスだから落ち着いた顔をしなくちゃいけない。

でも目の前にいる中山さんがいつも通りの中山さんで、その穏やかな眼差しを受けて涙が出そうになった。自然と頬が歪んでしまう。かろうじて涙を止めて中山さんを見つめた。会いたかった。

「おはよう」

中山さんが落ち着いて挨拶をしてくれたけど私はうまく声が出せなくて、精一杯できたことはエレベータに向かう中山さんの後をついていくことだけだった。

エレベータが降りてくるのがまだしばらくかかりそうで、二人でドアの前に立った。誰もいないエレベータホールだからいいよね、そっと中山さんの横顔を見たら中山さんも私を見てくれた。中山さんがオフィスでは見せない優しい笑顔を漏らす。中山さんの顔が耳元に近づいてきて「心配かけてごめん」って小さな声で言ってくれた。もうそれだけで全部が許せてしまう。恋は好きになったら負けっていうけど、こんな大好きな人のそばにいられるなら、私は完敗で構わない。

しばらくするとエレベータが降りてきて、中山さんが私に先に乗るようにと促してくれた。エレベータに二人だけで乗った。他の誰も来ないで欲しいって思っていた。二人になったらもう少しだけ話したい。中山さんが「閉」ボタンをすぐに押したから、ドアは素早く閉まろうとしていた。ほんの少しだけ二人の時間が欲しいよ。中山さんもそう思ってくれてる気がする。

でもドアが後少しで閉まるというタイミングで中山さんが慌てて「開」ボタンを押した。

「お、中山、奥さん、もういいのか?」

もう一度開いたドアから乗り込んできたのは白木課長だった。私の気持ちなんて知らずに課長は明るい表情で「おはよう」と私に言ってから中山さんのほうを見た。私も「おはようございます」と返事をしたけど、一気に気持ちが落ちる。このタイミングで奥さんの話なんて聞きたくないんだけど、エレベータがオフィスのある8階に着くまでの間、中山さんの奥さんに関する話を聞く羽目になった。

中山さんとゆっくり話したい。それがすぐには叶わなくて焦ったい。

それでも今日は中山さんがいつも通り私の斜め前のデスクに座っていてくれることに、ときどき「結城さん、これコピーお願い」と言って私を呼んでくれることに、すごく安堵した。中山さんがそこにいる、それだけで私は幸せだったんだと忘れかけていた気持ちをまた思い出した。


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どの回も短めです。よかったら「中山さん」と「さやか」の恋を最初から追ってみてください。さやかの切ない思いがたくさんあふれています。

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