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ラナンキュラス

バルコニーに出てプランターのお花たちを見たら、昨日まで元気だった真っ白なラナンキュラスが倒れそうになっていた。ラナンキュラスは命の終わりを告げようとしている。

私は朝と夕の二回、お花たちにシャワーで水やりをする。毎日必ず。

今日も色とりどりのお花たちが水を浴びて揺れている。お花たちはすごくうれしそうだ。だけどラナンキュラスは水を重たそうに受けていた。とても痛々しい。命の終わりを私が早めているのかもしれない。花びらの上に水をかけるのは良くないんだろう。

私はシャワーを止めて、ラナンキュラスに近寄って覗き込んだ。よく見ると真っ白だった花びらの縁のほうが茶色く変色している。そっと触れると白い花びらの部分はしっとりしていたけど、茶色い部分に指を滑らせたら、そこは少しカサカサしていた。

私は倒れそうになっているラナンキュラスを立ち上がらせたくて、まっすぐに持ち上げて両手で支えてみた。茎がとても弱っているのを感じる。それからそっと手を離すと、またすぐに倒れた。周りの土を固めてからもう一度やってみたけど結果は同じだった。

そのときリビングからチャイムの音が聞こえた。

あなたが帰ってきたのかもしれない。慌てて部屋に戻って玄関に向かったら、ちょうど自室に入っていくあなたの横顔が見えた。

「おかえり」
「ただいま」

日曜日なのに仕事だと言って出かけたあなたの表情は平日の仕事帰りのそれよりもやわらかくて、ほんの少し艶めいている。私が近づくと軽くキスしてくれた。手が汚れたままの私はあなたの背に腕を回せなくて、あなたを抱きしめられない寂しさを感じた。

「ちょっと着替えるね」

あなたがそう言ったので私は頷いて、そばを離れ、洗面所に向かった。土のついた手を石鹸で洗う。指と指の間もしっかり洗ってから水で流した。爪の周りも洗い残しがないかをチェックした。

それから両手に水をためて、唇を洗った。唇についた何かを拭うように手で何度も水をかけた。流しっぱなしの水音が、プランターのお花にかけていた水音を思い出させ、倒れかけのラナンキュラスも頭に浮かんだ。

ラナンキュラスは明日にはもっと倒れているだろう。土に触れるほど体を傾け、茶色い部分も広がって、真っ白な部分をさらに侵食しているだろう。

「コーヒー、入れようか?」

いつの間にかリビングに移動していたあなたが明るい声で私に聞いた。私も同じくらい明るい声で返事をした。

「うん、お願い」

私は唇にピンクの口紅を引きなおし、鏡に向かって小さく微笑んでみせた。

「鏡よ鏡、鏡さん、この世で一番美しい人はだあれ?」

心の中でそう尋ねたら、鏡が返事をした。

「それはあなたです」

嘘つき。

私は瞬間的に苛立ちを感じ、口紅で鏡にバツを描いた。でもピンク色のバツは弱々しくて、なんだか悲しくなった。

リビングに入るとコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。

二人で向かい合ってお揃いのコーヒーカップでコーヒーを飲む。あなたが淹れてくれたコーヒーが喉を通って体に入っていく。温かさが染み渡り、だんだん気持ちがやわらいだ。ホッとした。だから私はうっかりラナンキュラスの話をしてしまった。もう元気がないこと、茶色い部分が広がりそうなこと、明日には倒れそうなこと。そんなことを話してしまった。

するとあなたはこう言った。

「もう捨ててしまおう。新しいのを買えばいいよ」

あなたはニコニコしている。でもその穏やかな顔が私には残酷に映った。もう捨てるのか。不要だから新しいのと入れ替えるのか。その言葉は私の心の奥深くを刺した。刺された心は痛みを発し、徐々に体の細部に広がり始めた。首に、背に、頭に、肩に、腿に、指先にまで痛みが流れていく。

そしてそれが身体中を埋め尽くしたとき、怒りが生まれ、私はあなたにこう告げた。

「うん、そうだね。捨てよう」

その言葉を聞いて、あなたは満足そうに微笑む。

私はコーヒーカップをテーブルに置いて立ち上がり、ベランダに向かった。そして倒れそうになりながらも何とか頑張っているラナンキュラスを一気に引きちぎった。ラナンキュラスはほとんど抵抗することなく引きちぎられた。私はそれを手に持ったままリビングに戻った。

穏やかな笑顔で私を見つめていたあなたの前に戻って、私は萎れたラナンキュラスを差し出す。あなたは少し戸惑った顔でラナンキュラスと私を交互に見た。ラナンキュラスについていた土がパラパラとテーブルにこぼれた。

「もういらないんでしょ」

私はそう言って、ラナンキュラスの花首を手でぐしゃりと握りつぶした。それから手を離したらラナンキュラスはあなたのコーヒーの上に落ちた。あなたの表情が強張る。

私はキッチンに行き、シンクの下の引き出しを開けた。そこからあるものを掴んであなたのところに戻った。それをコーヒーカップの横に置いた。キラリと光るそれをあなたは顔だけじゃなくて体まで強張らせて見つめている。

私はゆっくりと口を開いた。

「ねぇ、今日誰と会ってたの?」



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