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#30 聞きたくない言葉

今日の中山さんはいつもよりも優しくて、うっかり中山さんが私だけのものだと思ってしまう。奥さんがいる中山さんは決して私だけの彼にはならないのに。

中山さんが仕事で来てる岐阜に私も追っかけてきて一緒に過ごしている。車に乗るたびに手を繋いで、足湯でももちろん手を繋いで心も体もポカポカで、今日が終わらなければいいのにと思いながら何度も中山さんを見つめた。

東京で隠れるような気持ちでデートをするいつもとは違って、誰の目も気にせず普通の恋人たちのようにおしゃべりしながら夜ご飯を食べ終わったら、もう8時を過ぎていた。

私は今日は東京には戻らずに中山さんと一緒に夜を過ごしたいと思っている。この時間だとまだ帰れるって分かってるし、休日なのに私が誕生日だからって無理して一緒に過ごしてくれた中山さんにこれ以上のことを求めてはいけないってことも分かってる。

だけどときどきチラチラと時間を気にする中山さんの仕草が寂しい。

夕方から今までの間に中山さんのスマホは何度か鳴っている。マナーモードにしてくれてるけど低いバイブ音はときどき静かに響いていた。トイレに行って少し長く戻らない中山さんを待つ間は考えたくないことを考えてしまった。

奥さんに連絡してるんだろうな。

今日は奥さんのところには帰らないでほしいよ。でもその気持ちをどうやって伝えたらいいのか分からない。もし伝えたら求め過ぎてるって思われないかな。わがままだと感じさせてしまうかも。そんなことを考えると簡単には言葉にできなくて、中山さんの愛を見たいと強く思った覚悟が小さくなりそうだ。

中山さんが腕時計を見た。そしてわずかに緊張した声で切り出す。

「今なら東京に戻れそうだから」

その一言だけを言ったら中山さんは黙ってしまった。

「そうですね、今日は帰れますね」そういう言葉を待ってるんだよね。言いたくない言葉だけど言うべき言葉だと分かっているから、少しずつ喉の奥からのぼってくる。だけど私はうつむいたまま言葉を出せなかった。中山さんもそれ以上何も言わずに黙っている。

しばらく沈黙が続いたあとで、中山さんが立ち上がった。

「行こうか」

私は小さくうなずいて中山さんの後ろを歩く。「ここは僕が払うからいいよ」と言ってくれたけどレンタカー代も中山さんが払ってくれたから、せめて夕食だけでもご馳走させてほしいと言ってお金を渡したら、笑って受け取ってくれた。「次は僕が払うからね」と言いながら。

次っていつだろうな。

車に乗ったら中山さんは私の頭をそっと撫でてくれた。きっと私はとても寂しそうな顔をしてしまってるんだろう。「帰りたくない」って言葉を言えないけど、中山さんは私のそんな切ない気持ちを感じとっているはずだ。

このまま走りだして駅前で車を返したら、東京行きの電車に乗るんだ。東京まではまだ一緒にいれるけどそれでもまた夜に別れるんだよね。中山さんはいつものように奥さんの待つ家に帰るんだろう。どうしようもない寂しさが自分の心に広がるのを感じる。

「ごめんね、結城さん。今日は帰れると思って部屋をおさえてないんだ」

一番聞きたくない言葉を中山さんが言ったから、思わず強く目を閉じてしまった。


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#短編小説 #連載小説 #中山さん #誕生日 #腕時計

中山さんはシリーズ化していて、マガジンに整理しているのでよかったら読んでみてください。同じトップ画像で投稿されています。

続きはこちらです。

第1作目はこちらです。ここからずっと2話、3話へと続くようなリンクを貼りました。それぞれ超短編としても楽しんでいただける気もしますが、よかったら「中山さん」と「さやか」の恋を追ってみてください。

『中山さん』シリーズ以外にもいろいろ書いています。よかったら覗いてみてください。



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