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夜空に舞う桜は

「先輩、私ね、川口君が忘れられないんですよ」

大学時代の後輩の菜穂が支払いを済ませて店を出た瞬間にそう言った。さっき食事中に最近の入れ替わりの激しい恋愛事情を面白おかしく語っていたときの声とは打って変わって、その声は大人しかった。

「川口君?」
「覚えてないですか? 私が三回生のときに付き合ってた川口君です」

ずっと昔のあの頃の記憶を手繰り寄せる。川口……ああ、そういえばそういう子いたね。顔はどんなだったかな、わりと薄い顔だったように思うけど、思い出せるような思い出せないような。背はそれほど高くなかった気がする。

「あー、うん、思い出した。川口君ね」
「そう、彼のことがね、私やっぱり一番好きだったんだなって」
「そうなんだ」
「そうなんですよね。誰と付き合っても川口君と比べてしまうから」
「今、川口君がどうしてるか知ってるの?」
「五年ほど前に結婚したってことは風の噂で聞きました。あとは職場は知ってるんですけどね」
「そっか、既婚者なのか」
「いや、でもその後どうなったのか知らないし、もしかしたら別れてるかもしれないですよね」

そして菜穂は一呼吸おいてから、こう言った。

「川口君が今、独身かどうかを知りたいんです」

菜穂の大きな目が私をじっと見つめた。

知りたいって、職場に行って彼に話しかけて直接聞くということだろうか。そういえば少し前に、初恋の彼を一目見たくて彼の職場まで友達について行ってもらったという話を聞いたばかりだ。そんな付き添い人に私がなるということなのか。

「それって彼の職場に行ってみるってこと?」
「うん。先輩、付き合ってくれませんか?」

***

その翌週、私と菜穂はショッピングモールに隣接する背の高いビルを見上げながら立っていた。川口君が勤める会社はこのビルに入っている。電車で50分、隣の県まで来ている。菜穂は周りをさっと見渡して、モールとビルの間に植えられている桜の木の下で彼を待とうと私に提案した。ここなら誰かを待っている人たちに紛れながらビルの入り口を監視できる。

時刻は午後五時。この時間に退社することはさすがにないと思うけど、だからといって遅くに来て川口君が帰ってしまった後だと意味がない。数時間の長期戦を覚悟して防寒対策のカーディガンも持参している。春の夜は冷えるから。

数日前に、菜穂が彼に自然に話しかけるにはどうしたらいいかといった作戦会議をした。彼を見つけたら近寄ってすぐ近くに物を落として注意を引くとか、「あれ? 川口君じゃない?」ってストレートに声をかけるとか、あれこれと作戦を考えるのは楽しくて青春時代が戻ってきたようだった。

ビルの入り口を二人で見つめる。まだ早いこの時間でもスーツ姿の男性がちらほらと出てくる。菜穂は時間が経つにつれて緊張が増すようで、何度も「どうしよう」と呟くから私までドキドキしてきた。川口君に会えますように。そして菜穂が話しかけることができますように。

そうして川口君を待ち続けているうちに二時間が経過して七時を回った。立ちっぱなしでいるのはなかなか疲れるし、お腹も空いてきたからそろそろ出てきて欲しいと思い始めていた。

「先輩、すみません。付き合わせちゃって」
「ううん、大丈夫」
「私ね、川口君と大学時代に何度も別れたりしたんですよね。ちょっとした喧嘩で別れちゃったりとかね。でも好きでまた戻っちゃったり。最後に別れたときもそんな感じでまた戻るんだろうってどっかで思ってた。でもそれっきりになって、本当にそれっきりになって」
「うんうん、そっか」
「私もいろんな人と付き合って、この前話したみたいにあんまり褒められた恋愛もしてないし、相手のこと傷つけても知らん顔っていう別れ方もしてきてるんですよね。でも川口君は、そんな私になる前のまだ真っ直ぐだった私だけを知ってくれてるんです」
「うん」
「川口君にもう一度、会いたい」

菜穂はちょっと涙目になりながら彼への想いを素直に聞かせてくれた。菜穂は大学を卒業してから総合職として大企業に勤めて、今では男性顔負けの収入を手にしているらしい。週に数日、近所の本屋にパートに出る程度の私とは全然違って服装も化粧も華やかで、だから恋愛も派手になるのは当然なのかなって思っていた。でもこうして川口君のことを話しているときの菜穂はあの頃のまま変わってなくて、その純粋な心を守ってあげたくなる。

「ねぇ、菜穂は、川口君がもし独身だったらなんて伝えたいの?」

そう尋ねた瞬間、ビルから出てきた一人の男性に菜穂の目が釘付けになった。

「先輩、どうしよう。川口君、川口君だ」
「え、そうなの? じゃあ行かなきゃ!」

私には彼が川口君なのかはよく分からない。少し背が低めの男性だ。でも菜穂ははっきり顔まで見えなくてもその歩き方や雰囲気ですぐに彼だと分かるんだろう。モールとは反対方向に歩いていく。私は動揺してまごついている菜穂の背中を二度三度、強く押した。

「ほら、行っちゃうから! がんばって」

菜穂は私を見ずに川口君だけを見つめながら頷いて、一歩足を踏み出した。躊躇いがちだった足取りが、二歩、三歩と進むにつれて迷いを捨てていく。足に、腰に、背に、肩にと下から徐々に固まっていくような覚悟が、少しずつ小さくなる後ろ姿に滲んだ。

***

あの頃二十歳ぐらいだった菜穂と川口君は今はもう三十五歳になっている。二人にとっては十五年の歳月が空白の時間で、その間にそれぞれの出会いや経験があって、菜穂が変わったように川口君もまたあの頃とは変わってしまっているだろう。でもそんな長い間も菜穂の川口君への気持ちが消えてなかったなんて私は思ってもいなかった。

だけどもし川口君が独身じゃなかったら、菜穂は彼への恋心を今度こそ手放すと言っていた。きっとその可能性のほうが高いと菜穂自身も分かっている。「桜が一緒に散ってくれる季節だから」なんて言っていたから。そしてここには偶然にも桜まで用意されていた。見上げるとまだ花は散り終わっていない。

少し離れたところで菜穂と川口君が話している。菜穂が川口君に何度もお辞儀をしていて、あの頃の菜穂はそんなに彼にペコペコしてなかったなってふと思い出した。そして菜穂は最後に深くお辞儀をした後に、こちらに向かって歩いてきた。

さっき川口君に向かったときのように躊躇うことはなく、一歩を思いっきり踏み出して、次第に小走りに私に近づいてくる。でも菜穂がときどき目のあたりを拭っている。泣いているみたいだ。その涙は喜びの涙なのか、決別の涙なのか、どっちなんだろう。いつの間にか私は両手を強く握りしめていた。

「先輩ー!」

まだ距離があるところから菜穂が叫んだ。

「川口君、今、一人なんだって!」

とびっきりの笑顔が勢いよく近づいてくる。まさか、そんなことある? 出来過ぎじゃない? あの頃、川口君を大好きだと何度も言っていた菜穂のうれしそうな笑顔が一気に思い出され、今の菜穂と見事に重なった。

息を弾ませながら戻ってきた菜穂が言った。

「今も好きですって言っちゃいました」
「そこまで言っちゃったの?」
「うん、言っちゃった」
「それで、川口君はなんて?」

菜穂が答えようとしたその瞬間に強い風が吹いてきて、いつの間にかライトアップされていた桜の花びらが、一斉に夜空に舞った。

舞い散る桜を浴びてうれしそうに笑う菜穂は、まるで祝福のフラワーシャワーのなかにいるように見えた。


 - 3000文字 -

*あとがき*

巡り合わせというのは不思議だ。もし菜穂が数年前に川口君に会いに行っていたら、川口君はまだ離婚してなかったかもしれない。そうしたら二人が再び結ばれることはなかっただろう。運命が二人をもう一度引き合わせたのか、菜穂の強い想いが彼を引き寄せたのか、どっちなんだろうとあの頃私はよく思っていた。

でもあれから二年、もう一つの可能性が生まれた。菜穂のお腹の中には川口君との赤ちゃんがいる。もしかしたらこの子がパパとママをまたくっつけたんじゃないかな。

子供の名前はもう決まっていると菜穂がうれしそうに話してくれた。

「舞桜(まお)」

とても綺麗な名前。あの日の桜だね。



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