アドルノ(音楽)とベンヤミン(文芸)

 アドルノについては高校から本格的に始まった音楽受容から著作にーたいしてわからなかったと いう事実をおいておけばー目を通していた事を考えれば 反対にベンヤミンは存在はー今も薄い記事であるがーウィキの記事を遅くても高校から知っていたのに著作を知るようになったのは大学からだ。
 膨大にあった学術文庫に三島憲一氏のベンヤ ミンの評伝があり、それをぱらぱら読んだ記憶がある。そして著作を読んでみようと思ったのは文 芸の興味からである。 例えば、アドルノの著作は(プルーストの評論が載っているプリズムは興味があるんだが、まだ読めていない)音楽著作の一部、マーラーやベルクのものしかないんだ。それもベルクはきちんと読 んでいたとは思えない。覚えているとしたアドルノがその著作のなかでルルの補筆完成を肯定す るような事を書いていたのが(読み直さないと正誤はわからんけど)妙に印象に残っているぐらい だ。[1]
 マーラーの著作もどうも記憶に残っていることがらは少ない。しかもそれをここで列挙する事に意味はないだろう。 アドルノから直接のーしかし 原語が読めない私は この面はどうもよく回答手段を見出ださす方法がわからない命題だなと感じるー印象はあまりに少ない。
 一つだけ例を挙げるなら、マーラーについての著作の末尾あたり、(第九交響曲につい てのか)カフカの「訴訟」[2]の主人公の最後の台詞、「犬のようだ!」が引用されていること。私は これを読んでいた高校当時の時、読んでいたカフカ「城」のみであった。
 なぜか私はそれ以来、自嘲する際に使う言葉になったのだ。 アドルノにかんしては評伝の印象があり、幼少期の逸話がー具体例は音でまず覚えたというアド ルノの発言以外とくにないのにー筆舌しがたいアウラがまずあるのと、そして作曲をしているーこ の特異性も私の興味を惹くのだろうー事実。 岡田氏がどこかの著作でアドルノ幼少の頃の回想、「小さいときのアドルノが母親と弾いたモー ツァルト」を引用して、そのーどこにでもあるような、しかし幸せさがつまったということー演奏に敵 うものはなかろうと書いていたこと。
 去年の終わり頃の冬にメモで私は 「・アドルノの短いモノローグ(原文ママ モノグラフの間違い)を記したく候。 フランクフルト学派。 Berg.小さな小品の管弦楽。のイメージ。 ショッピングモールのBGM。氾濫。 ←批判・拒絶。(貴族趣味、ヨーロッパ伝統?) これに対してのアドルノ批判。」 と書き記した。 ショッピングモールと書いているがどうもこれはポピュラー音楽へのアドルノの批判についてであるぽい。 (まぁ、その当時の私の考えがなんだったのかは忘れてしまったので。ひょっとしたらアドルノの著 作にそれについての記述があるのかもしれない。)
 しかし、おおよそ興味あって調べればわかるような事柄の列挙である。これぐらいの素材でモノグラ フなど誰でも書けるとは思うけれど。


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ベンヤミンも著作を読むようになったのは大学の時で、どうも有名な複製時代の芸術だったかよ うな気がする。そのなかにあったカフカ論に、カフカの幼少の写真についての文が記憶にある。 そして恐らくアウラについて私はよじべえ氏の一連の文から得た概念であった。それがベンヤミン が持っていた概念であったことを知ったのはここ2年前ほど前なのだ。 パサージュ論についてなぜか私が興味を抱いてしまう“草稿”であるということ。 ウィキの記事。他の評論、三島氏の評伝から得た概要(?)から面白いものだと感じたが、恐らく読んでもさほど面白いものではないだろう。
 複製、写真についてのベンヤミンの考えを直接、彼の著作から私は得ていない。 写真といえばパリの図書館で執筆するベンヤミンの写真が妙に記憶に残っている。
 で、プルースト関係で言えば、ボードレールのあの娘の詩との関係がどうも印象に残ってる。 大学一年の頃、プルーストの草稿研究の吉田城氏の著作に喪われた時を求めての「カフェの女」 と関係付けて論じていたものがあり、それとボードレールの詩と関連付けていたことが思い出さ れるのだ。 さらに三島氏の評伝にはベンヤミンがプルーストやボードレールを翻訳についての章があったの が思い出されるーどうもゲオルグの影響があるらしいー。 ベンヤミンがフランスの詩人と作家の翻訳をしていたのは知ってはいたけれど、この評伝でボー ドレールのあのそれ違う娘の詩についてのベンヤミンの論があることを知ったものだ。(しかし、特 段私は、この関連性に驚きはしていない。あくまで自分のベンヤミンの受容の経緯を列挙してい るだけなのだ。) 「パサージュ論とボードレール、プルーストの事を考えて、それはあり得たかもしれないこと、過去 が今によみがえるその事を憧れていること・・。」

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 総括するなら、どうも私は“概要”から興味を抱く傾向があるようである。しかもそれから“アウラ”を 得ているようだ。これはやはり倒錯と言われるようだ。これについて、もう少し考えてみたいな。 こうして、読み直してみるとどうも覚えていることを時系列に並べたような印象があるわけだ。 そんなどうでもよいような逸話ぐらいしか思いつかないわけだ。

(初稿202012月17日 23時42分)

[1]アドルノがマーラーの第10交響曲にかんして補筆完成版を認めていない事を考えれば意外な事だと考えるからだ。
[2]従来、「裁判」とか「審判」に訳されていたこの作品の原題の近年の訳の仕方に沿って「訴訟」 とした。

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