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美しさは罪なのか【インド映画】Andala Rakshasi

"Andala Rakshasi"(2012年、テルグ映画)
ネトフリの言語を英語に切り替えると日本でも英語字幕で見ることができる。Wikipediaではキャスティングの最初にナヴィーン・チャンドラが挙げられているが、実際にはラヴァニャ・トリパティが主演、ラーフル・ラヴィンドランとナヴィーン・チャンドラが彼女を支える共演じゃないかという気もする。(当時の)若手新進スターのアンサンブル映画なのかもしれない。今んとこ日本で観られるナヴィーン・チャンドラの初期出演作品の一つでもある。この作品は彼のインタビューや紹介文等で必ず言及されるので、おそらくテルグ映画界では今も彼の代表作の一つとみなされているのだと思う。
観てからちょっと時間が経ってしまったので、思い出しながら書いてみる。

以下の予告編を見るとラブコメみたいな映画に見えるし、実際その要素はあるのだが、それはこの作品の一部にすぎない。まあインド映画(かつテルグ語映画)ですから盛りだくさんです。
前もって注意喚起しておくと「男性が女性に一方的に(しつこく)求愛する」という状況を肯定的に描いているので、受け入れがたいと感じる方はおられるかもしれない。

1991年。金持ちの息子ゴータム(ラーフル・ラヴィンドラン)はある日往来で出会ったミトゥナ(ラヴァニャ・トリパティ)に一目惚れする。どうにかして彼女と会う機会を得たいゴータムだったが、ミトゥナが交通事故に遭い、重傷を負ったことで、思わぬ形でその思いが叶えられる。治療費を払えないミトゥナの家族に、ゴータムの父が援助を申し出たのだ。意識を取り戻したミトゥナが尋ねたのはスーリヤ(ナヴィーン・チャンドラ)のことだった。彼女はスーリヤを愛していたのだが、彼が同じ事故で亡くなったと知らされる。ミトゥナの両親とゴータムの父は子供たちの結婚の約束を取り交わし、傷心のミトゥナは反発することなくそれに従う。
ゴータムはミトゥナを自分の別荘に連れていく。彼女はスーリヤを思うばかりだったが、時間をかけるうちに徐々にゴータムに心を開き、結婚を受け入れる。結婚式の準備のためゴータムはハイデラバードに戻るが、その途中、路上にチョークで描かれたミトゥナの美しい似顔絵に気づく。絵が描かれるところを見ていた人物に尋ねると、その絵を描いたのは廃工場に住み着いたスーリヤという狂人だという。

ここまでだいたい1時間くらいでスーリヤことナヴィーン・チャンドラの登場時間は0分。超シリアス進行なのだが、ここから突然ラブコメっぽいパートに移り、過去のミトゥナとスーリヤの馴れ初めが語られる。ようやくナヴさん登場…なのだが書いているとめちゃくちゃ長くなるので割愛する。以下のMVでラブコメの片鱗を感じていただけるか。

回想が終わったところで、スーリヤは事故に遭った彼女の命を救うため、ゴータムの父に諭され、自分は死んだということにして身を引いたのだが、以来自暴自棄になって荒んだ生活を送っているらしいことが明かされる。正直なゴータムはその事実をミトゥナに隠しておくことができず、ミトゥナはスーリヤが生きていたことを知ってショックを受ける…。


テルグ語の原題をWikipediaは"Beautiful Demoness"と英訳していた。「美しい悪魔」(rakshasiを検索したらrakshasa、「羅刹天」だそう)だけど、デモネスだから女性のことを指していると思われ、とすれば、悪魔とはヒロインであるミトゥナのことを指していることは明らかである。可愛くて、わがままで、どこか少し幼くもあるミトゥナは、この作品の中で常に愛らしく描かれている。彼女を演じるラヴァニャ・トリパティが本当に可憐(クルティ姿が素敵)。バストショットやクローズアップが多いのも彼女のちょっと危うげな少女っぽい表情を強調しているように思えた。

ラヴァニャ・トリパティがとにかく可憐
ぷんすか怒りながら「チャンペスタ!」と叫ぶのが
たまりません

ゴータムもスーリヤも、彼女と出会ったことで運命が大きく狂う。一方はお育ちのよい富豪の息子、もう一方はその日暮らしの無頼なアーティスト、という正反対の男二人は、それぞれのやり方で彼女への愛を貫こうとして自らを悲劇に導いていくので、だからこそこの作品はミトゥナを無意識的な美しい悪魔として描いたのかもしれない。
だがしかし。ミトゥナからすれば、そんなん知らんがな、だろうし、男たちが勝手に惚れておいて頼まれもせんのに勝手な行動をとって、挙句に悪魔(羅刹女)とされるなんて迷惑な話じゃなかろうか…?と私は思ってしまうのだ。
まあそれを言ったら元も子もないし、こういうふうに女性を描く映画って過去にもたくさんあるよねえとも思うのだが…。すまんな…叙情を理解できなくて…
この映画は舞台が1991年に設定されている(制作年の11年前)のだが、これも理由はちょっとよくわからなかった。2000年代以降に設定すると恋愛観としてちょっと古いとかそういうことなのか、それとも現地の方が観ると、すこしノスタルジーを感じるような雰囲気の作品なのだろうか。

ラヴァニャ・トリパティが可憐だということは書いたのだが、彼女に惚れる二人の男を演じたラーフル・ラヴィンドランとナヴィーン・チャンドラが、それぞれにわかりやすい二枚目ではないところが私は個人的に面白かった。二人ともどこか暗さがある。やさしい面立ちのラーフル・ラヴィンドランが演じるゴータムは、どこか激しい感情を押し殺しているように見えて私には不穏に感じられたし、ナヴィーン・チャンドラが粗野さ(と不思議なピュアネス)を前面に出して演じているスーリヤは、特に初めてミトゥナを見たときの憑かれたような一途な眼差しが怖いくらい。ミトゥナという美に魅入られてしまった二人の男、というキャスティングとしてはよかったように思う。ただ、登場人物三人いずれにも感情移入はしにくかった。私が年取ったせいかな。

ラヴァニャ・トリパティとナヴィーン・チャンドラはこの4年後に"Lacchimdeviki O Lekkundi"で再共演しており、ここではイイ感じの未来が待っていそうな男女を明るく演じている。私は正直そっちの方が好きかもしれない(作品にはツッコミどころが多いものの)。


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