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邪馬台国は九州にあったってことでよくないですか? グーグルマップをゆく⑭

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立ったところの町を空想探索する、グーグルマップをゆく。今回は、福岡県糸島市。

 福岡県の西端部に位置する糸島市。なんだか綺麗な名前だと思っていたが、元々は北部の志摩郡と南部の怡土郡(いとぐん)があって、それを合併させて「いとしま」として漢字をあてたものらしい。

 ピンが立ったところが怡土郡のたりだったので、怡土郡について調べてみた。ここは魏志倭人伝にも出てくる伊都郡ではないかと言われている。糸島市は日本海に面していて、朝鮮半島も近い。古代、大陸との交易が盛んであったことは容易に想像できる。

 魏志倭人伝は、三国志の中の魏書で、日本列島について書かれているもので、長年「邪馬台国はどこなのか?」という議論がなされている。この中に韓国から邪馬台国とされるところまでのルートが書かれている。

対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国

というルートで書かれており、この中の伊都国が怡土郡のことではないかということらしい。ちなみに、和歌山県にも伊都郡は存在した。しかし、いつからそう呼ばれていたかはよくわからないので、ここでは触れない。

 大化の改新以前、伊覩縣(いとのあがた)という豪族の領地が置かれていたらしく、古代からそれなり栄えた場所ではあったようだ。

 話が少し逸れるが、邪馬台国のあった場所について想像を膨らましたい。魏志倭人伝の魏は、現在の河北省邯鄲市と河南省安陽市のあたりらしい。

魏・現在の河北省邯鄲市と河南省安陽市あたりあたり

 ここから日本を見た場合

魏から見た場合の日本

このように見えないだろうか。

 当時の距離感からしても、韓国の隣にある島くらいのもので、そこから先の本州にまで思考は及んだのだろうか。ちなみに、この時、まだ日本という国は形成されていないし、日本に住む人々もそういった概念は持っていない。

 中国で三国が争っていたように、日本においてもコミュニティ程度の集落が国としていくつも存在したに過ぎず、邪馬台国は、それをいくつかとりまとめていた少し大きな国に過ぎなかっただろう。

 つまり、ここで言いたいことは、邪馬台国はどう考えて九州にあったのじゃね??ということである。大化の改新以後、この島国が日本という国家を形成し、現在に至るまで歴史の中心は近畿圏であったことは確かである。そのため、邪馬台国を近畿圏にあったことにしたい気持ちはわからなくはない。しかし、当時の中国大陸からすれば、近畿の方が奥にある田舎でしかないように思えてならない。

 日本が形成されるまで、九州、出雲、大和朝廷と大きな王権が存在し、日本列島の中でもいくつもの国が大陸同様に争っていたと考える方が自然である。魏書の中にもいくつも国が存在したことが書かれている。

 私は研究者ではないのでよくわからないが、もうそろそろ邪馬台国は九州にあったってことで終止符を打ちませんか?


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