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石の宝殿と渡来人。兵庫県高砂市。リアルグーグルマップをゆく。

 古本出店をしているデイリーマザキ氏が「行きたいところがある」というので目的地も知らされないまま同行した。電車で2時間ほど揺られてついた場所は兵庫県高砂市のJR宝殿駅というところであった。名前からして何かしらの歴史があるに違いない。

 駅から目と鼻の先に「本の香り」というブックカフェがあり、デイリーマザキ氏の目的地はこの店であった。この地域の本の需要を一手に引き受けているような素敵なカフェで、我々はスパイスカレーを注文した。その後、デイリーマザキ氏が店主に話かけて用事を済ませ、「宝殿はどういったところですか?」と質問をした。

兵庫県高砂市
「本の香り」さん



 駅名である「宝殿」の由来が「石の宝殿」であり、近くにある生石神社にそれがあって聖徳太子と関わりがあるという話を聞かせて頂いた。

 ちなみに、この話のきっかけとなったブックカフェ「本の香り」さんの所在地である兵庫県高砂市神爪(かづめ)は、古代は「神集」と書いて「かんづめ」と読み、神を集めたというのが由来であり、どうやら何かしらの信仰と関係があるのかもしれない。

 この日は生石神社まで足を延ばす余裕がなかったのだが、どうも気になったので調べてみた。

石の宝殿

 宝殿とは、寺社などで宝物を納める建物を意味する。つまり、石の宝殿とは石でできた宝物を納めるところということである。では、実際には誰が作ったのか。

兵庫県高砂市 生石神社の石の宝殿
Wikipediaより転載

播磨国風土記に書かれた石の宝殿

 石の宝殿にまつわる言い伝えは40にものぼると言われており、実は詳しいことはわかっていないらしい。「本の香り」さんで教えて頂いた聖徳太子の件についても、8世紀に書かれた「播磨国風土記」に聖徳太子が摂政を務めていた時代に、物部守屋に造らせたという話が載っているものの、聖徳太子の摂政時代には、物部守屋はすでに亡くなっており時代が合わない。

 聖徳太子という人については詳しいことがわからないので、そもそも何の目的で造らせたかもわからないこの話は、何ともフワッとした話である。ただ、高砂市から西に位置する兵庫県揖保郡は、聖徳太子が推古天皇から与えられた土地で、奈良の法隆寺の荘園だった場所である。今も聖徳太子が建立したとされる斑鳩寺があるので、ただの言い伝えとして捨ておけないのも事実である。

播磨鑑に書かれた石の宝殿

播磨鑑(播州石宝殿略縁起)によると、

 大己貴命が天の岩舟に乗って当地の山にとどまり高御位大明神と号し、一神は少彦名命生石子大明神と号した。二神が心を合せて五〇余丈の岩を切抜き、石屑は一里北の高御位たかみくらの峰に投げ置き、一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を造り、二神が鎮座した。

コトバンクより

 と書かれており、大己貴命は出雲大社の御祭神であるため、目的はわからないものの、出雲との関わりを伺うことができる。

渡来人と石の宝殿

 ここから少し想像を広げてみたい。
日本における建造物は、基本的には木造である。石造は大陸由来で、朝鮮半島より入ってきた技術である。

 日本古来の木造建築は、木材を地ベタに直に打ち込むもので、腐敗すれば作り直せば良いという考えに基づいて、伊勢神宮が20年に一度、遷宮が行われるのはこのためである。一方、朝鮮半島から来た建築技術は、石で基礎を作り、その上に木材を乗せるというもので、木材の腐敗を防いで、建築物を長く使うことを目的としている。

 つまり、石の宝殿も、石造であるという点から渡来人によるものだという可能性はかなり大きい。

おわりに

 今更ながら、石の宝殿とは江戸期に付けられた呼び名であり、「播磨国風土記」にも「大石」と記されている。つまり、宝殿であったかどうかもわからないということである。朝鮮半島の石造を調べてみても似たものはなかったが、何か信仰的な意味合いはありそうである。

 石の宝殿が朝鮮半島由来かもしれないということを述べた。出雲との関係も深そうである。だが、ここで元の聖徳太子の話に戻したい。聖徳太子のパトロンは秦氏という渡来人であった。つまり、聖徳太子もまた、朝鮮半島との深い関わりがあるということである。

 結局のところ、石の宝殿が何かについてはよくわからないということになってしまった。

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