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リアルグーグルマップをゆく。吉備国、岡山市。

 今回は、岡山県にリアルに赴いたので岡山のことを。図書館に赴くも月曜日で休館日であったので、気ままに筆を動かしたい。

 岡山県は元々吉備国といい、黍(きび)がよく取れたことからこの名がついた。古代には中央のヤマト政権を脅かす勢力であり、古代出雲、九州の筑紫国と並んで四大王権の一つであった。

 資源は豊富なところが発展するわけだが、古代にいて中国地方はまさに資源の宝庫であった。特に鉄がよく取れたのが出雲と吉備国である。鉄の原材料も砂鉄は、地下のマグマが冷却してできた火成岩の風化残留物、すなわち地表が水や空気の働きによって劣化して細粒化したもので、それが土砂とともに河川などの流れ込んで川床に蓄積されたたり、海から打ち上げられて蓄積する。

 これらは天候などの自然条件によっても左右される。中国地方においては出雲と吉備国の中間部あたりの山地がバランスの取れた好条件であったらしく、それを境として北側に出雲、南側に吉備国が形成される。

 また、岡山は水にも恵まれた。岡山県の南側、現在は埋め立てられているが、江戸初期まで「吉備の穴海」と呼ばれる海であり、瀬戸内海航路の主要ルートであった。

赤で囲われている部分が埋め立て地

 出雲は日本海側に面しており、中国や朝鮮半島といった大陸との国交も盛んであったが、吉備国は、瀬戸内海を航路とする中国や朝鮮半島にとどまらない九州や四国、関西とも交流がしやすい地域であり、古代の日本を関西より西とするならば、ほぼ中央に位置している。

 個人的には、倉敷の楯築遺跡が出土している旋帯文石のようなものは、古代中国の遺跡で長江文明に属する三星堆遺跡と何か共通点があるのではないかと思えるが、これを専門家に任せたい。

 さて、ヤマト政権は、吉備国をなんとかしなければ出雲に進むこともできないと考えた。そして、出雲討伐のための協定を結び、その後、吉備国を制圧しようとした。もちろん吉備国は抗ったが、最終的にはヤマト政権の傘下となる。

 備前、備中、備後、さらには美作と解体され、江戸期には備中倉敷を天領としたのは、主要都市だったからである。

 岡山県は非常に興味深いところである。またいずれ「グーグルマップをゆく」にて調べる日が来るだろう。

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