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摂関政治と女房文学。京都府京都市。リアルグーグルマップをゆく。

 女房文学とは、宮中や貴族に仕えた女性「女房」によって書かれた日記を指し、代表的な作品として「紫式部日記」が挙げられる。特徴は、女手と呼ばれる仮名文字を用いて書かれている点である。仮名文字が用いられる以前は、男性が漢文を用いて書かかれていた。

 仮名文字の柔軟性と女性の感性が見事にマッチしたことにより、日本語の表現方法が大きく変化したと言えるだろう。また、女房は文学は女流文学と混同されているが、女房文学は「女房」によって書かれたものかどうかによって判断される。それは、女房という立場の人間にしか書くことのできない内容を孕んでいたことにも大きく関係している。

 「枕草子」も女房文学の一つに数えられることがあるが、厳密には清少納言が女房に出仕していない時期に書かれたものであるため女房文学には当てはまらないとされている。女房たちは、個人的に日記をつけていたわけではなく、宮中のことを記録として残す仕事として日記をつけることを任されていた。また、これらの日記は、ただの記録ではなく、自らが仕える主人を楽しませるという役割も負っていた。

 女房文学の全盛は、藤原道長の摂関体制時代であろう。平安期の摂関体制のピークは藤原道長が摂政を務めていた時代である。摂政、関白、右大臣を務めた藤原兼家の五男として生まれた道長は、本来であれば後を継ぐ立場ではなかったが、兄の早逝や失脚により後を継ぐこととなった。娘の彰子を一条天皇に強引に嫁がせたことにより一帝二后制を作る。この彰子の女房が紫式部である。

 これを皮切りとして、次々に皇太子に他の娘を嫁がすなどして自分の地位を確固たる築いた。道長の死後、摂政は息子の藤原頼通が継ぐ。一条天皇が崩御後、彰子の子である敦成親王が後一条天皇となり、彰子が天皇の母として宮廷を掌握することとなる。これによって、宮中の女性たちは政治的に力を強めることとなり、彼女たちの日々の仕事であった日記も重要性を持つのである。

 宮廷における日々の記録であれば、女性に限らなくても男性でも務まるが、なぜ女房による記録が重要視されるのだろうか。「紫式部日記」の第一章の十一に見られる「十一日の暁に、北の御障子、二間はなちて、廂に移らせたまふ」から見られる出産における緊迫した臨場感溢れる表現などは、男性は出産に立ち会うことができないので、記録することは不可能である。つまり、女房であるからこそ可能な宮中の記録が多くあるのである。その点でも女房文学は重要な意味を持っている。

 とは言え、私の個人的興味は、紫式部は性格が悪くて清少納言のことを口悪く罵っている点。女房というコミュニティも現代と変わらずなかなかに難しいコミュニティだったに違いない。

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