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長い歴史の中 いろいろあった対馬と壱岐島 一度は訪問してください

トップ写真 壱岐島 闇靇神社(くらおじんじゃ)近くの風景


紛争に巻き込まれてきた島

ここしばらく書いて来た島シリーズ。
対馬と壱岐島編。
ひとまず、今日で終わり。

そんな訳で、
今日は私なりの感想について書いてみます。

対馬と壱岐島。
古代から、大陸と日本を結ぶ重要な航路。

その為、
歴史上いろいろな出来事に巻き込まれてきました。

古くは神功皇后の三韓征伐。
白村江の戦い。
鎌倉時代には元寇にて全滅。
豊臣秀吉の朝鮮出兵。
比較的近代では日清、日露戦争。
そして大東亜戦争。

対馬と壱岐は日本の重要な砦としての役割。
ずっと果たして来たのです。

壱岐島聖母宮
三韓征伐 元寇 秀吉朝鮮出兵といろいろ


壱岐島新城神社 のどかですが、元寇の合戦の場 


新城神社境内 大将 平景隆 自刃の地


佐賀唐津 朝鮮出兵の折、各地の戦国大名が陣を置いた
朝鮮出兵の際、秀吉が作らせた名護屋城跡

白村江の戦いから防人(さきもり)の役割

その中でも日本にとっての
大きな転換点となった出来事。
個人的には白村江の戦い(663年)
だと思っています。

当時、同盟国であった百済から救済支援要請。
倭国は百済の救済復興のため、大陸へ出兵。
大国である唐と新羅連合軍と白村江にて激突。
結果は陸海共にズタボロの惨敗。

東アジア圏では唐が圧倒的力を持ちます。

敗戦後の倭国。
報復と、勢いに乗った新羅と唐の軍勢。
攻めて来ることを予測。
防衛体制を強化。

西の要諦として大宰府政庁を置きました。

大宰府政庁が置かれた大宰府にある太宰府天満宮
菅原道真公を祀る太宰府天満宮

大陸からの侵攻に対する備えとして、
各地から防人が集められます。

ここでは各地からと書きましたが、
防人は主に東国から集められています。
白村江の戦いの少し前頃、
日本列島は完全に倭国の支配圏ではなく、
東国の蝦夷と戦っていたのです。

戦いに勝ち、蝦夷を征伐した倭国。
蝦夷の豪族たちを防人として九州に送りました。
送られたエリアは北九州、対馬、壱岐島。

防人が築いた金田城の動画ありました
↓ ↓ ↓

防人たちは送られた地域にて、
防衛のための砦作り他、
土塁や石塁ならぬ石垣を築きました。

防人たちの赴任期間は3年間。

なのですが、なんとも理不尽な条件。
武器や食料は自前で調達。
赴任先では自給自足。
もちろん単身赴任。

家族や農地を残しての赴任なので、
働き手を防人で取られた地域は、
労働者が不足して農地は荒廃。

生きて帰れる保証はありません。
それでも防人たちには、
赴任地へ赴く選択肢しかなかったのでしょうね。
戦いに負けるとこうなるのか。
理不尽な話です。

今も防人たちが築いた遺跡が残ってます。

白村江の戦いの戦後処理交渉

その時代の日本。
大化の改新(645年)
白村江の戦い(663年)
壬申の乱(672年)
大宝律令(701年)
平城京遷都(710年)

倭国が懸念していた唐による倭国討伐。
665年と669年に派遣された遣唐使による
和平交渉の成果なのか。
唐は倭国に対して、
すぐの行動は起こしませんでした。

しかし671年。
対馬を経由した軍隊含む使者?
筑紫国(福岡東部)へやって来ます。
おそらく、小競り合い程度の戦闘。
行われたと思われますが、
倭国側は交渉し、貢物を贈り帰国させました。

筑紫国東部にある 筥崎宮 交渉の地?
筑紫国東部にある宗像大社 交渉の地?

唐側は白村江の戦いの戦後補償。
満足していなかったのでしょうね。

今回はこれで帰ってやる。
でもこれでは満足はしてないからまた来る。

そんな感じであったとは。
私の予想です。

ところがこの後、
唐と新羅の関係が悪化。
倭国を相手にする余裕がなくなった唐。
それっきり、これっきり。

倭国にとってはラッキーな展開でした。

阿波から奈良へ遷都したのか?

多くの日本人の常識。
この時代、飛鳥時代の都。
奈良でしょ!
ですよね~。

しかし、古代史阿波説の中には、
奈良への遷都までの都は阿波にあった。
そんな説を提唱する人もいます。
この説については、
数ある阿波説の主張が食い違うポイントです。

もし、仮に、
阿波に都があったとしたら。
何故、奈良に遷都したのか。

その大きなきっかけが白村江の戦い。

おそらく唐側は、莫大な戦後補償を求めていた。

阿波から奈良へ遷都することで、
国名も倭国から日本国へ変更。

白村江の戦いをやったのは、
私たちではなく、阿波にあった倭国ですよ。
と、しらばっくれる作戦だったのか。
その辺りはハッキリしませんが、

唐側に残る記録には、
国号の変更の理由を問われた遣唐使。
唐側を納得させられる答えができず、

「日本は信用できない。」
みたいな記述があるそうです。

そりゃ聞かれた方は困りますよね。(笑)

この事が原因で、
旧唐書には、
日本伝と倭国伝が並立するようになった。
そんな説もあるようです。

阿波と対馬と壱岐島は同じ文化圏

これが事実かどうか。
私には分かりません。

が、現在の徳島県に残る神社や遺跡。
対馬と壱岐島に残る神社や遺跡。
かなり似ている所があるな~。
そう感じました。

対馬藩の港跡 に残る石積み
対馬藩主宋家の墓所の石積みと石段

おそらく、古代は同じ文化圏であった。
もし、阿波に都があったとしたら、
日本各地に阿波の信仰スタイルが広まった。
祀られる神様も。

阿波 忌部神社の石段
阿波 天岩戸神社にある 謎の三角石とくぼみ 対馬にもあった

時代と共に発展した都市部。
神社も発展し、豪華絢爛な社殿が建てられ、
昔の信仰の面影は姿を消して行った。

一方、人の出入りが少ない離島や田舎。
そこには今もまだ、
古代の祭祀スタイルが生きている。

対馬や壱岐島に残る古社を見ていると、
阿波ととても似ている神社や石積みが多い。
阿波に都があったかどうかは置いといても、
共通の文化圏であったのは間違いない。
私の考えです。

対馬から壱岐。壱岐島から九州北部。
渡るごとに文化は磨き上げられて行く。
肌で感じられる旅でした。

唐津 田島神社
田島神社境内 秀吉も参拝した

少しでも歴史的背景を掴んだ上で、
巡ってみると、とても勉強になりますよ。

日本を守るため、時代の犠牲となった先人。
居たことを忘れない。
平和を祈りましょう。合掌。

田島神社にあった元寇船の碇石
対馬 壱岐では元寇は身近な話なのです


それにしても防人は理不尽ですよね~。

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本日も最後までお読みいただきありがとうございます。













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