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ジョージの本音

 自分の奥さんが親友に取られた時、いったい何人の男がその親友との関係を保っていられるだろう。しかもその親友は僕よりもギターが上手い。ヴォーカルだって味のあるヴォーカルを聴かせる。
僕はというと、たまたま入ったバンドに天才が2人いて、そのバックギターを弾いただけ。もちろんそのバンドが解散間際のごたごたでチームワークなんて言葉が通用しない時に僕が作った楽曲が意外とうけてしまい、世の中がようやく認めてくれたなんてことはあったけれど、いつも僕はおどおどしていたんだ。

 エリックはとても気の良いやつで、自由奔放にロンドンの街を歩いていた。最先端のブルースロックで、ロンドンのギター弾きの憧れの的だ。コマーシャリズムを嫌い、自分の好きな音楽に没頭する姿は、僕がコマーシャリズムのど真ん中でアイドル視されていた時、僕をどこか後ろめたい気分にさせたのだ。でもエリックはそんな僕に近づいてきた。とても人懐っこいやつだ。それは、僕がビートルズというスーパーバンドにいるから近づいてきたわけではなく、音楽仲間といった感覚で僕を見てくれていたのだ。

 ストーンズのキースやブライアンは陰で僕のことを「へたくそ」「オレがビートルズに入っていたらもっとすごいプレイができる」なんて言っていたようだが、エリックはそんな僕といつもセッションをしてくれた。だから、僕が『ホワイトアルバム』(1968)制作のとき自分の思い描くプレイができずに悩んで彼に相談したら、匿名でプレイを引き受けてくれた。僕はとても感謝したし、匿名というところにエリックの謙虚さを感じたんだ。2人は親友になった。

 パティは自由気ままな女だ。そんなところに僕は恋したのかもしれない。
でも、ある時から僕は神様と会話するために、頻繁にインドへ行くようになる。何故あんなにクリシュナを求めていたのか・・・きっと不安だったんだと思う。実力以上のことをみんなに期待されていたしね。
ジョンやポールは精力的に自分の世界を切り開いているし、リンゴは飄々とマイペースな活動をしている。僕は、自分を見失いかけた・・・そんな時、インドが僕を呼んだ。
ジョンのように素直にヨーコのもとに走ることができれば、パティにさびしい思いをさせずに済んだかもしれない。
 そして同じ時期、エリックはパティに出会ってしまった。そして彼も悩み始めたのだ。
親友である僕の奥さんに恋をしてしまったんだから。

 エリックは僕と比べて素直だ。だから、「レイラ」なんて架空の女に跪き、デレク&ザ・ドミノスなんてバンド名で活動を始めたけど、エリックは堂々とパティにラブソングを歌った。僕は複雑な気分だったけど平静を装うしかなかった。バングラディッシュ救済のこともあったし、何よりも音楽を作ることが楽しい時期だったからね。ビートルズという呪縛からの開放に満ち溢れ、いろいろな葛藤(パティとエリック)と救済(世界平和)への糸口として制作した『ALL THINGS MUST PASS』(1970)の中の「MY SWEET ROAD」は神への賛歌として知られたけど、僕はみんなが幸せになれればいいなんて思っていたりしてたよ。でもこれから僕はずっとこのことで悩むなんてこの時は思ってもみなかったけどね。

 エリックは、親友のデュアンやジミが死んだことによりかなりのショックを受け、当時の恋人と2年もの間ヘロインを常用し、隠遁生活を送っていた。僕は彼の復帰を望んでいたし、音楽仲間もみんな彼を心配していた。そして、仲間のロンやピートが彼を表舞台に引っ張り出してきたんだ。エリックも自暴自棄になっていたけれど恋人の親父さんからも説得されて復帰した。やつれた顔でプレイしたレインボーシアターのプレイはちょっと辛そうだったけど、その後のレイドバックしたプレイが彼の持ち味にもなっていった。

 パティは僕の元を離れ、エリックと行動をともにするようになったのは、彼がドラッグ中毒から復帰したあたりだろうか。彼のツアーにパティが同行した記事を目にした時、僕は困惑し、ひとつの作品を作り上げた。スピリチュアリズムと人間への嫌悪が入り乱れた皮肉たっぷりの内容は、難解すぎたかもしれない。『Living in the Material World』(1973)はそんな作品だ。スピリチュアリズムについてはタイトル曲に、また人間への嫌悪については「Sue Me, Sue You Blues」でビートルズとその弁護士たちをやり玉に上げてしまった。
唯一、ラジオ局向けに「Give Me Love」を入れたことがこの作品に平穏を呼んだかもしれない。『ALL THINGS MUST PASS』の次に発表されただけに、ファンでさえ困惑したアルバムだ。
 その後も僕はゆっくりではあるが、作品を発表し続けた。途中、パティとの別れも経験した。パティはエリックの正妻になったが、その後2人は別れてしまうんだけどね・・・。
僕は身体的にも病に侵されあまり表舞台に出なくなってしまった。

 僕はジョンが撃たれて死んだとき、ビートルズを思い出す作品を書いたことがある。思い出は美しいままで作品になったわけだ。リンゴやポールとのセッションは楽しかった。この気持ちがビートルズの時にあったら、どれだけ楽だっただろう。
その後、僕は映画音楽の制作でヒット曲が出たこともあったし、ディランやジェフ・リン、トム・ぺティとバンド活動を始めたが、ロイ・オービソンとの永遠の別れでこのバンドは頓挫し、僕は再び塞ぎこんだ生活になった。そんな時、エリックは人懐っこい笑顔でまた近づいてきたんだ。
「今度は僕が君を助ける番さ。」
彼はしり込みする僕をステージに立たせてくれた。エリックのバンドに迎え入れられる形で、僕のステージをプロデュースしてくれた。

ファンも多い分、批判も多いアメリカやイギリスのツアーを避け、暖かいファンの多い日本公演のみを選んでくれたのもエリックだった。1966年にビートルズとして公演した日本で再び公演し、大成功を収めることができ、音楽に向き合うことができたのはエリックのおかげだと思う。緊張する僕をしっかりサポートしてくれたエリックに感謝している。
 振り返ると、僕はずっとビートルズとエリックとパティに悩まされてきた。みんなそれぞれが大好きだから始末が悪いんだ。
この葛藤が僕の人生そのものかもしれない。



 時代が変わっても作品は残る。ジョンやポールの陰でソングライターとして遅咲きだったジョージはとても人間らしく、一人のミュージシャンとして実に才能ある人だと思う。美しくて、暖かみがあるメロディときれいなスライドギターはジョージの持ち味で、彼の人間性が顕れている。
 今回、ジョージの本音を書いたつもりだが、あくまでも推測である。映画になるような波乱万丈な人生だと思うけどね。

2007年11月21日
花形

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