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拓郎へのひねくれたラブレター

「拓郎はCBSソニーまでだね。フォーライフからの拓郎は面白く無いんだよ。陽水も一緒ね。ポリドールの頃がいいんだよ。フォーライフに移ってからの陽水は言葉に溺れちゃって何を唄っているのかわからない…」
フォークファンにとっては、ニューミュージックですら違和感があったと聞くから、最近の拓郎や陽水なんて全くわからないだろうね。
そういうファンはそのミュージシャンが好きであるが故、自分の理想像が完全に出来上がってしまっている。
多感な少年の時期。なんでも目新しく、感動していた頃の音楽って忘れられないし、今その音楽を聴いたら直ぐにあの頃に戻ることができる。だから、ミュージシャンもその姿や音でないと自分との整合性と合わない。故に「1億総評論家」になってしまうことは良くあることなのだ。

 僕はいつから拓郎をちょっと離れた位置で観るようになったのか。
もちろん今でも拓郎ファンであることは変わらないが、僕のファンの定義は無条件に拓郎を許せるということではない。嫌なものは嫌と言えるファン。
 拓郎との出会いは小学生の頃だったが、本格的にファンになったのは中学生の時に友人から借りたレコード『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』(1971)と親戚のお姉さんから借りた『元気です』(1972)の2枚。これを死ぬほど聴いた。
そして、篠島オールナイトコンサートへの参加。
もう、これで決まりである。
 篠島での燃えるようなステージを目の当たりにして、あの姿が拓郎のベンチマークになってしまったことが僕の悲劇かもしれない。
 篠島コンサートを首を長くして待っている間にそれまでのレコードを聴きまくったが、一番しっくりしたのは当時のニューアルバム『ローリング30』(1978)。
 フォーライフレコードの社長業とミュージシャン活動を並行しながらの苦労話は当時のラジオ放送から聴こえてきていたが、相当な孤独感があったと思う。だからその分、ステージに賭ける想いに跳ね返っていたのだろう。鬼気迫るヴォーカルとは当時の拓郎のことを表していると思っていた。
 常に日本の音楽シーンを切り拓き、フォーク、ニューミュージック、歌謡曲といったジャンルを飛び越えた世界に唯一無二の存在感を誇る拓郎。そんな拓郎が1980年に入り「ファミリー」「アジアの片隅で」等の大曲を発表した時、我々は度肝を抜かれた。それは我々の想像をはるかに上回る大曲だったからだ。
 1970年代(以下70年代)のコンサートのアンコール曲は「人間なんて」が定番で、最後の最後に叫んで散る様が拓郎のコンサートの真骨頂だった。その「人間なんて」を封印し、新たに提示された2曲。
特に「アジアの片隅で」は時代を具体的に斬り、そのメッセージ性は悲しいかな現在にも通じる普遍的な内容になっている。
レゲェの軽いリズムに重い言葉たち。アジテーションの叫びが我々ファンの心を掴んだ。

 1980年代(以下80年代)は、コンサートもどんどん大規模になり、盟友かまやつひろしはこの頃の拓郎バンドを「まるでローリングストーンズを観ているようだ」と唸った。
しかし、拓郎の中ではある意味で白けていたという。
「落陽」をやれば盛り上がる。予定調和の盛り上がりに辟易し、コンサートのマンネリ化に空虚感を感じるようになり、ついには1985年の引退説が浮上したのだ。
 私の中での拓郎は、もう既にこの頃から一歩引いて見ていたと思う。
なぜなら、私は前にも述べた通り篠島で洗礼を受けている。あのヴォーカルが目に焼き付いている。そして、『元気です』『ローリング30』の完成度を中々超えることができないスタジオアルバムにイライラしていたからだ。
もちろんアルバムの中には入魂した曲も、しなやかな曲もあり楽しませてもらったが、アルバムのトータル性からして私の中で中々超えられない壁として先の2枚は立ちはだかっていた。
 そんな事を言うこと自体、本当のファンじゃないという人がいるかもしれない。
いやいや、盲目的に全てを受け入れている方がよっぽど気持ち悪い。少なくとも然るべきお金を払ってアルバムを買い、コンサートに赴いているわけだから自分の意見を持っていて何がおかしいか。自分がファンと言えばファンだ。僕の理想像は僕の中だけのものだ。

 80年代の音は、デジタル化が急加速した。シンセサイザーの発達や妙にエコーの効いたドラムマシーンなど。そんな時代のトレンドに70年代からミュージシャンはさぞ戸惑ったことだろう。それは、暑苦しい70年代ミュージシャンの曲、特にヴォーカルがデジタルの音にマッチしないのだ。
 拓郎がいくら熱く叫んでも、煌びやかで軽い音楽に溶け込まない。ちなみに70年代からのミュージシャンでこの現象に上手く対応できたのはユーミンぐらいではないだろうか。彼女のヴォーカルはもともとノンビブラートで、無機質。一つの楽器にすら聞こえるからデジタルへの移行も自然だった気がする。

 1985年のつま恋。「ONE LAST NIGHT in つま恋」と題されたイベントは、拓郎引退の噂が流れる中、拓郎は「生涯最良の日にしたい」とだけ言い、オールナイトコンサートを敢行した。
拓郎引退を阻止すべく、集まったゲストミュージシャン。70年代の同窓会と言う趣であった。解散した「かぐや姫」「愛奴」「新六文銭」の再結成や、ゆかりのあるミュージシャンとのセッション。私は目の前で繰り広げられる音楽に息苦しさを覚えていた。
 ドラムはゲートリバーブが効きすぎて軽いし、いつものびのびと拓郎のバックで弾きまくる青山徹のギターの音があまりにもか細く、バンドサウンドに溶け込んでいない。そしてなにより、拓郎本人がステージ上で一番冷めているように見えた。
にやにや笑うだけで意気込みも何もない。引退するようなしないような・・・そんな中途半端なコンサートを一晩中見せられた気がした。
そしてそのコンサートから3年間・・・拓郎はコンサートツアーを休止した。
その間もアルバムが発表されたが、本人もあまり記憶が無いという。

 それでも1988年にミュージックシーンに帰って来た時、僕は素直に喜んだ。歳を重ねたヴォーカルも良いものだと思った。相変わらずスタジオアルバムには満足していなかったが・・・。
 拓郎って、やっぱりライブの人なんだと思った。あの燃えるようなヴォーカルなんだと。
しかし、私もとうとう口に出して拓郎を批判するようになったのは、拓郎が長い髪を切ったあたりからか・・・。
「男達の詩」(1991)・・・世界初となる1曲収録のシングルCD。そういえば「唇をかみしめて」(1983)はA面のみのシングル盤だった(こういう彼のこだわりは好きなんだけどね)。
 「男達の詩」が出た時のアルバム『detente』(1991)は非常に聴きやすい良いアルバムという記憶があるが、ライブであまり良い印象が無い。いや、拓郎は決して悪くなかった。悪いのは客。
 拓郎も歳を取り、観に来ている客も歳を取った。
いい歳こいたおっさんが、濁声でたくろーと叫びながら、相変わらずの「朝までヤレー!」の声援。そして新曲「男達の詩」を宴会で音頭を取る調子の間で手拍子しているのを偶然見てしまい、なんてかっこ悪いんだと思ったんだよね。これについては、拓郎に罪は無いんだけど・・・。
そんなオヤジファンに支えられている髪の短くなった拓郎って、僕の好きな拓郎なのか?なんて思うようになった。
加えて、この頃のバンドで元オフコースの清水仁と松尾一彦がいて、これも嫌だった。軽い声のコーラスで「神田川」を妙なロックアレンジにしていたけど、これでホントにいいの?って拓郎に聞きたかった。
ウェーイかんだがわ~ ウェーイかんだがわ なんてコーラス、ギャグかと思った。

 1983年辺りの「王様達のハイキングツアー」ってなんだかめちゃくちゃで、唯一の伝達手段であった拓郎のラジオを鵜呑みにしてしまえば、かなりヤバい大人たちだった。
話をかなり盛っているかもしれないが、「拓郎は天狗になってやしないか」なんて思いながら、笑って聞いていた。そういうところも含めて大好きだったんだよな。
しかし、1985年のつま恋を境に冷めた口調のMCになってしまい、叫ぶ観客がいると「もう少し大人になりなよ」なんて口調。照れ隠しとはわかっていても、なんだか突き放されている感じがして、歌に対してもこみ上げるものが少なくなっていった。
そんなこんなで、コンサートで1曲か2曲でも物凄いヴォーカルが聴ければ、「それで良し」としていた自分もいる。拓郎が意識を変えたのと同時に聞き手も大人になって来たというのもあるし。
 拓郎も以前ラジオで素直に吐露していたが、ステージで盛り上がる「落陽」や「春だったね」を超える歌を作らないとミュージシャンとしても辛いんだと。一生懸命作るんだけど、客は昔の俺を求めるんだ、と。
頂点に立ったミュージシャンの永遠の悩みかもしれないが、言わせてもらえば、こっちだって金をはたいて素晴らしい姿の拓郎を期待しながら観に行くわけ。どんなにつまらないアルバムを出されても「ライブパフォーマンスの人」だから、ステージでは何かやってくれるのではないかと期待するわけ。それが本当のファンってものでしょう。冷めた関係であれば、アルバムも買わないし、ライブだって行かない。しかしファンだから嫌でも行動してしまうのだわ。

 最新アルバム『ah-面白かった』(2022)は本当につまらなかった。
良い曲もあるが、スタジオでヴォーカルを録音していないという緊張感の無さや、全体的に鳥山雄司のパソコンの中で作るデモ音源のようですべてにおいてスケールが小さい。
もし、コロナ禍で無ければ、ちゃんとミュージシャンを呼んでスタジオでしっかり作ったのだろう、と思うと本当に惜しい作品だ。ラジオで拓郎がアルバムを自画自賛していたが、きっと本当はつらかったんだろう、という気持ちにもなった。
拓郎のオリジナルアルバムはこれで終わりかよ、ってマジで思ったもんな。

 そんな中、ニューアルバムの曲に限定して湾岸スタジオでスタジオライブを行なった、というニュースが入り、それが2022年の年末に発表された。
ライブがやりたかった無念さが染み出ているパフォーマンスで、本当にライブの人なんだと思う内容だった。
あんなにつまらないスタジオアルバムが、こんなに良いものだったのかと聴き直してしまう内容だった。
本人にしてみれば、スタジオアルバムだって良い!と言いたいだろうが、ツラツラと書いてきた通り、スタジオアルバムの拓郎を僕はあまり評価していない。しかし、ライブは絶品だ。だから、この「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」は、拓郎からの最後の贈り物なのか、と思った。


 拓郎は、2022年12月16日のラジオのレギュラー放送終了を以て現役引退を報道されていた。拓郎は1度だって引退なんて言ってないんだけどね。
だからか、その2か月後の2023年2月18日にいきなりラジオに戻って来た。普段着の声で特番のラジオに帰って来た。何事も無かったかのように篠原ともえと女優の奈緒をゲストに迎え、普通の放送を行なった。歓喜するファン。僕は半ば呆れたが、彼にとっては区切りをつけるなんてこと自体がナンセンスなんだろう。なぜなら、つい先日の12月15日にも特番ラジオに出演し、来年の2月のオールナイトニッポンの特番にも出演予定だとか。引退報道が出てから1年に2回もラジオ放送をやっていることが引退なのか?マスコミ諸君。あなたたちももう少し拓郎を研究しなさい。拓郎は風のように生きるという事が座右の銘なんだから。

80歳になったって、スタジオでもラジオでも、なんでもいい。
生で歌う瞬間があれば、それが拓郎の生きる道だし、永遠の嘘をつき続けてほしいのだ。生で歌い続けることが拓郎らしいでしょ。

 今年も相変わらずの気ままな吉田拓郎に「拓ちゃん最高ナンバーワン」の称号を与える。
これが私の2023年最後の拓郎記事。

2023年12月30日
花形

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