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「アカシアの雨がやむとき」 西田佐知子


 私の母はもう何年も介護老人保健施設に入所している。入った当初は足腰の衰え(腰の骨の圧迫骨折)と精神的な総合失調症という診断が下され、老々介護となる父親との生活が困難ということで介護度も5であった。
しかし、母は奇跡の復活をし、精神的にも安定し息子の顔も分からなかったことなど信じられないという回復をみせた。おかげで介護度は1となり、施設の人がこんな例は今までないと驚いた。但し、足腰の衰えは相変わらずなのでいまだ入所している。
 施設内は認知症の入所者が多いので、母はまともに話せる人がなかなかいない、とこぼす。そりゃそうだろう、言ったそばから話を忘れる人とまともな人の会話が成立するわけがない。介護士だってまともに応対していたら1日の仕事は終わらなくなってしまう。本当に大変な場所である。
 その施設には昼食時やおやつの時間に室内放送が流されている。
和やかなニュースや音楽などを流しているようで、入所者のリクエストにも応えている。母によると音楽はかかるが、たいていは演歌か唱歌が多く、つまらないという。
 母は施設の人と会話をする中で、好きな歌手はユーミンということを知られているので、ユーミンをうちの母からのリクエストということで勝手にかけられてしまうらしい。
「私が好きなユーミンをかけてくれないのよ。いつも同じような曲ばかりで・・・あれはきっと事務の人が毎日演歌ばかりで飽きるから私をダシにしてるのよ」とこぼす。
「この前なんか、浪曲とかかかるのよ。もう浪曲なんて聞きながらおやつなんて食べれないわよ・・・カオスよ~」なんて笑っていた。
 母は先日、初めてリクエストをしたようだ。
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」。

元気だったころ、ユーミンと並んでこの歌をカラオケで好んで歌っていたことを思い出した。
「で、どうだった?アカシア~が流れた時」
「どうもこうもないわよ、別に。事務の人がユーミンじゃないんですねって驚いてたけどね。ただね、わりとまともに喋れるおばあちゃんがこの歌好きだったわ~なんて言ってきたの。で、ちょっと話したらその人、全共闘くずれだったのよ。あー、なるほどねって感じ」

 「アカシアの雨がやむとき」は1960年発表の歌謡曲で、8年かけて100万枚のセールスを打ち立てた大ヒット曲である。1963年には同名の歌謡映画も製作され、浅丘ルリ子と高橋英樹の日活スターが競演した。
 西田佐知子は「アカシアの雨がやむとき」のヒットでスターダムにのし上がり、その後も「コーヒールンバ」のカバーをヒットさせている。(ちなみに西田佐知子は関口宏の奥さん)。
 「アカシアの雨がやむとき」の発表当時、母はちょうど就職をした頃で、この歌の風景が思い出されると言う。
 日米安保条約に揉めた国会周辺のデモ隊をいつも横目にしながら入省していたという。
外務省の窓から見る議事堂の衆議院側の通りは人が川のように流れていた、と。
 60年安保は全学連と警備隊の衝突時に大学生の死亡事件を起こし、条約を強引に進めた岸内閣は総辞職という代償を追う。その後も岸首相が暴漢に襲われたり、日本社会党浅沼委員長が暗殺されたりと血生臭い政治の季節の象徴であった。

 そんな時にこの歌が世の中に受け入れられたというのは、あまりにも厭世的な流れが充満したことも一つの要因である。敗北感満載の内容だからだ。
 西田佐知子の醸し出す退廃的な雰囲気も合っていたのだろう。母は生きてきた時代の中でこの歌は忘れられないという。
 音響設備も良くない施設のスピーカーから流れた「アカシアの雨がやむとき」は、当時活き活きと活動していた老婆の記憶を思い出させたのかもしれない。
 母は施設で相変わらず「まともに喋れる人いないのよねー」と毒づきながら、次のリクエストは何にしようか考えている。

2023年5月12日
花形

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