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『クリスマス』 小室等、泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎

 人に指図されず、自分達の作りたい音楽を作っていく。だからレコード会社を作った。そうすれば、日本の音楽の歴史を変えることができるはずだ。この4人が集まれば怖いものは無い。そんな調子でフォーライフ・レコードは1975年に設立された。
 初代社長はレコード会社設立の話を持ってきた小室等が就任。吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるは取締役&プロデューサーという役職に就くことになった。僕はたまたまフォーライフの設立記者会見を昼のワイドショー《3時のあなた》で見た。
 4人は金屏風の前に座り、終始小室さんが話していた。陽水と泉谷はサングラスをかけて怖そうだった。拓郎は仏頂面で上目遣いに何かを睨んでいた。僕は『元気です』(1972)や『今はまだ人生を語らず』(1974)のジャケットでしか拓郎を知らなかったので、ベージュのスリーピースを着ていることに驚き、意外と太っているんだな、という印象だった。

 レコード会社設立後、第1弾のアルバムは泉谷しげるの『LIVE泉谷 王様達の夜』(1975)が発表された。2枚組のこのアルバムはそれまで在籍していたエレックレコードの頃の代表曲を中心に行われたライヴの模様を余すことなく収録しており、エレックへの決別とも取れた。そしてその数ヶ月後には空前の野外コンサート“吉田拓郎・かぐや姫 つま恋オールナイトコンサート”が開催された。静岡県掛川市つま恋多目的広場には5万人以上の観客が詰め掛けた。これは世間的な注目度からするとフォーライフにとって追い風となり、まさに新しい光が音楽界に降り注いでいたようだった。僕は小学生だったので、つま恋には行くことができなかったが、参加した親戚のおじさんはセイヤングで実況中継していたテープを聞かせてくれながら、興奮してライブの模様を話してくれた。
 その後、小室さんは『明日』(1975)、陽水は『招待状のないショー』(1976)、最後に拓郎は『明日に向かって走れ』(1976)を立て続けに発表し、世間を騒がせた。長者番付の1位2位を独占していた陽水と拓郎の2人が同じレコード会社になったわけで、その新譜が出ることは大事件だったのだ。
 人間、驕りが出ると、とんでもないことをしでかす。自分達はスーパースターの集まりだ、売れている、自分達が世の中を動かしている、と錯覚してしまう。そんなときに企画されたアルバムが『クリスマス』(1976)である。4人がカバー曲とオリジナルを寄せ合い1枚のクリスマスアルバムを作るというものだ。
 4人が集まるのだから売れないはずはない。ミリオンセラーの陽水や5万人以上もコンサートで集められる拓郎がいる。4人の売上を単純に足し算してプレス枚数を割り出した結果だとして、大船に乗ったつもりで初回プレスも破格の30万枚で行こう!なんて決めてしまった。陽水の『招待状のないショー』でさえ、この時期そこまで売上は上げていないのにである。案の定『クリスマス』の売上は予想プレス枚数を大きく下回るものであった。一応このアルバムは発売直後に1位にはなるが、当初の売上見込みへは遠く及ばず約20万枚が返品あるいは出荷されなかった。季節ものだったせいもあって継続的な売上は見込めず、制作費の回収ができずにフォーライフ・レコードが倒産寸前まで追い詰められてしまった。

 この事件により小室等から吉田拓郎への社長交替劇を生み、支払えなくなった『クリスマス』の制作費を補う為に拓郎は時間の無い中、風邪をおして、アルバム『ぷらいべえと』(1977)を制作した。緊急のことなのでミュージシャンもアマチュアが使われ、スタジオも深夜しか押えられなかった。鼻づまりの拓郎の声が痛々しかったが、このアルバムが意外なヒットを生み、フォーライフは復活する。
 驕れる作品『クリスマス』は、そんなごたごたが無ければ、良質な企画盤として成立した。もともとは拓郎が、エルビスや洋楽大物ミュージシャンにはクリスマスアルバムがあるじゃないか!ならば、それを作りたいという発想だった。拓郎1人でやるよりも
4人で作ることになった経緯は先に述べた「驕り」と拓郎も小室さんも語っていたが、アルバムの中身はとても良いのだ。
 拓郎が「諸人こぞりて」を景気良く歌い、陽水が艶のある上手いヴォーカルで「ホワイト・クリスマス」を歌う。圧巻は泉谷の「きよしこの夜」。伴奏もなく吐き捨てるように歌う。そのレコーディング・トークバックから小室や拓郎が“本当に今のでOKテイクなのか”と確認する。泉谷は“いいんだよ、これで”と面倒臭そうに言う。一同大爆笑。そんな和気藹々としたおおらかなアルバムなのである。


2005年12月19日
花形

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