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軽薄短小

 レコード屋さんでレコードを購入。早く家に帰ってターンテーブルに乗せたい。
なんでもかんでも宅配で届く現代(いま)とは違うあの頃。あの重さが懐かしい。レコードの重さって、僕らの期待が満載しているんだ。
そして、レコードを持って街を散歩すると何故か気分が高揚した・・・。音楽を聴くぞ!って感じがしたんだよね。
 レコードはそのうちCDになり、小さくて軽くなった。黒いビニールは無味乾燥なプラスチックに変わっていった。
ずっしりとした重さが無くなった分だけ僕は期待が小さくなった気がした。ジャケットも小さいし、歌詞カードの字も小さい。目を凝らして読まないと頭に文字が入ってこない。
何を今さらこんなことを書いているのか、と思うかもしれないが、こうやって音楽という目に見えない「心の物資」は知らず知らずのうちに私たちの心からスルーされていったのではないかね。
 レコードがCDに変わること。つまり、人は便利なものへと直ぐに鞍替えする。
レコードからCDに変わったのは単純に電機メーカーとそのグループのレコード会社の策略に過ぎないが、勝手にハードを変えられてしまえば、ソフトはそれに追随するしかなく、次第にレコードたちは姿を消していった。

 僕たちの世代は1980年代後半にバブルを経験している。
「レコードが聴けなくなってもCDがある、車にカセットテープなんて付けていたら女の子にもてないぞ、6連奏のCDチェンジャーでなければ!」
 ちょうどその頃、ラジオ局はFM局が次々と開局した。「AM放送で流れる懐メロや演歌なんて聞いている場合じゃないよ」と言ったかどうかわからないけど、当初J-WAVEは演歌がオンエアされないことを売りにしていた。

 僕が高校を出てぶらぶらしていた1983年には、「軽薄短小」という流行語があった。
かつて日本の経済を支えた製鉄や造船などの重工業を「重厚長大」産業として見た場合、1980年ころにそれらは斜陽を迎え、半導体などのエレクトロニクスなどのソフトウェアに産業構造が変わっていく。いわゆる「軽薄短小」産業という呼称であるが、これはこれで日本の高い技術力の英知を結集した解釈もあるが、この流れを悪い政治家に例え始めたり、あまり深く考えない若者世代に例えたりしたので流行語になった。
 レコードからCDに移り、CDは、「雑音がなく、音がクリアで良い」「小さいから車でも聴くことが出来る」「A面からB面にひっくり返す手間が省けていい」など耳障りの良い言葉が並んでいたが、僕は「軽薄短小」という言葉が思い浮かんだ。

 10代や20代の若者に昭和歌謡が流行っているという。そういえばうちの娘もアイポッドの中には山口百恵、桜田淳子、キャンディーズや中森明菜などが入っているようで、カラオケでも歌うらしい。
これってどういうことなのか・・・。昭和歌謡を原体験した者として非常に興味深い。
 今の音楽と昭和歌謡の大きな違いは、詞の面から言えば言葉数の違い。昭和歌謡は前提として「流行歌」という考え方がある。レコードにも(流行歌)と記載されていることも多々あった。
つまり、老若男女問わずみんなが聴いても違和感が無かったこと。もちろん、恋愛の知らない小学生が大人の演歌の気持ちはわからないと思うが、生活の中に音楽はあり、意味も分からず歌うことができたということ。もちろんそこには音楽番組がテレビの中心にあったことも忘れてはならない。
 昭和歌謡は言葉を選び、その短い言葉から情景を描いている。現代の個人主義的な歌詞や、やたらと説明調の日記のような歌詞には老若男女に響く表現ではないのではないか。
 ましてや、おニャン子クラブから始まった大人数のグループでの合唱で、踊ってるんだか歌ってるんだかわからない画像において、歌詞を想像することが出来ないのが本音。

 曲の面から言えば、前述のとおり流行歌のメソッドでは誰もが口ずさめること。つまり今の音楽のようにめったやたらに転調しない安定の旋律なのか、と思う。
 基本的に今のアイドル歌手は歌唱力よりもビジュアルやダンスだから、声量もなければ歌唱力もない(かなり言い切っているが、殆どあってると思う)。だから、歌の一番おいしいところで歌うためにはサビで転調し、音を下げるなんてことを平気でやる。このことは昭和歌謡から聞いている世代は違和感の塊でしかないのだ。
 曲は消費されるものとして捉えられているのかどうかわからないが、こんな話がある。
Aメロのパターンを100作る。Bメロのパターンを100作る。サビのパターンを100作る。そして、それを組み合わせて1曲にする。
 流行りそうなリズムのベーストラックの上にデジタルで選択したメロディを載せていく。こんな作り方をしていれば何曲もできるが、記憶に残るようなメロディは出来ないだろうね。安定の旋律なんてできるわけがない。しかしAIが発達すれば、ヒット曲の常套なんてものは簡単にできるだろうね。
ま、このことは、小室哲哉が流行り始めたあたりからこの傾向があって、あの人の曲ってめちゃくちゃな音階でしょ。すぐに転調するし。あれ、歌いこなせているの渡辺美里くらいじゃないかね。トモちゃんもひどかったし、globeは高音がキンキンして聴いてられなかったもんね。

 斉藤哲夫の「いまのキミはピカピカに光って」というヒット曲がある。1980年のミノルタカメラのCMソングで、宮崎美子が一躍スターになったことでも知られる。
この歌、当初はCMで使用される部分。つまりサビの部分しか存在しなかったそうだ。コピーライターの糸井重里がタイトルフレーズを書き、ムーンライダースの鈴木慶一があのメロディを付けた。これにあの映像である。話題にならない訳がない。たちまちシングル発売の話になったそうだ。しかし、もともとあった曲ではないから、作品としてメロディを付け足して完成させたんだと。しかしこの付け足された部分が違和感だらけで、歌詞も意味不明。つまり、一つの旋律としての流れが出来ていないという例。ジャニーズの歌とかで、サビの部分だけが印象に残る歌を聴くとこの事例を思い出してしまうのだ。

 昭和歌謡は筒美京平や遠藤実、中村泰士、三木たかし、戸倉俊一など職業作曲家がいて、歌手はその作家の作品を歌うために相当な鍛錬を行なったよね。弟子になったり、歌謡番組のオーディション番組に出たりと当時は歌手になることが一つのステイタスだった。アイドルも然り。テレビ番組で「スター誕生」の審査員で松田敏江なんて厳しかったもんね。
「あなた、全然発声が出来てないじゃない。やめたほうがいい」とか「顔だけよくても歌手にはなれないのよ」なんて真顔で言ってたからね。怖いおばさんだった。
当時は歌番組も沢山あったから、流行歌も湯水のようにあったけど、それでも下手な歌手はどんどん淘汰されていった。
 話がとっちらかったけど、ここで昭和歌謡が優れているとか、今の歌はだめだ、とか言ってるわけではなく、何故若い人が昭和歌謡を最近好んでいるのか、ということだよね。
 これって先ほどの「軽薄短小」という言葉が妙に当てはまる気がするんだよね、今の歌には。
これには作り手であるプロダクションの社長さんたちも責任はあると思うけどね。
 こういう社長って昔はミュージシャンを目指していたけど限界を知って裏方に回って金儲けに走るなんてよくある話で、流行りそうな歌をパソコン上でチャチャっと作って、簡単にカラオケ作って、発声練習なんてしたことも無いアイドルに歌わせてるわけよ。もちろん、SNSとかで美辞麗句を並べて、ま、インチキ臭いやつね。あ、十分ディスってるか。
ま、得てしてそういうアイドルって勘違いしたバカが多いからインタビューとかでも妙なこと言うね。
「ハイ、最近はアーティスト活動もしてるんですっ!」
アホも顔だけにしろって。「アーティスト」って「活動」なのか?

 僕の持論はアーティストって言葉をめったやたらに使わないこと。このブログでも殆ど使っていないはず。「ミュージシャン」「シンガー」「音楽家」という言葉を使っている。
 アーティストって、言ってしまえば「芸術家」なんだけど、僕が考えるアーティストって独自の芸術を構築した人で、「この人の後に道は出来た」くらいの芸がないと言ってはいけない気がするのね。歌を歌ってるだけで「アーティスト活動です」って言っちゃう軽さに違和感があるわけよ。歌を歌っているのはただの「歌手」だよ。歌を作って歌うなら「シンガーソングライター」だよ。ただそれだけ。
だから、軽々しくアーティストなんて言う奴は「軽薄短小」っていうか、それはもうただの「軽薄」なんだよね。

2021/1/29
花形

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