感想より偏見 瀬尾まいこと村上春樹の類似性について 2

前回からの続きからだが、理由の二つ目は「主人公の鈍感さ」だ。

ここでいう「鈍感さ」は愚かさとかではなく、本当は感じるところがあるのにそれをうまく処理できないような、うまくセンサーが働いていないような鈍感さだ。

「そしてバトンは渡された」の主人公、優子は親が転々と変わっていき、まるでバトンのように手渡されていく。

バトンには様々な解釈があるかもしれないが、表紙を参考にすればオレンジの棒に幼少期の彼女と思われるであろう頭が乗っているのは優子がバトンとなっているからというのは自然な解釈だろう。

彼女は親元を転々とすることに対して色々な人に支えられているという気持ちを持っていて、理不尽さや不条理といったものを滅多に口にしないし、生活ができていることに感謝してさえいる。

親元である森宮さんに「不自由なく暮らせるようにするのが親の当然の役目だ」というような話をされた時には、優子はそれを二つ返事で受け入れるほど自分は幼くないと主張している。(本書を持っている人は文庫版で218ページ当たりの話だ)

ここでは親として当然のことをしたいという森宮さんと幼くないからそのように全体重を預けることはできないという優子の対立として描かれているが、もう少し踏み込んでみよう。

全体重を預けたくないのではなく、預けられないのではないだろうか?

親元を転々としていれば、急に変わった親に対して全幅の信頼を寄せようという気にならないというのも当然だろう。

しかしそれを「自分が幼い子どもではないから受け取らない」というのは、自分への本心を隠すための理由なのではないだろうか。

つまり本当は自分が傷ついていて親の差し伸べる手への不信があるにも関わらず、他者のせいにできず、自分に理由があると求めているのだ。この点に「主人公の鈍感さ」が出ているように思う。
他にも優子はこのような鈍感さ、自覚しないことによる生存戦略を「たくましさ」と表現しているように見られるシーンもある。

もちろん、このようなことは小説に書いてあるわけではない。しかしこの小説は一人称小説であり、優子が全ての本心を言っていない、いや本人ですらはっきりと自覚できていないような、ミステリでいうところの「信頼できない語り手」であるという可能性は残されているだろう。

瀬尾まいこ側ばかり長々と話してしまったが、一方村上春樹を見てみよう。村上春樹作品における「は喪失観のある若者を参考にしている場合が多い。代表作である「ノルウェイの森」から考えてみよう。

「ノルウェイの森」のラストシーンで主人公はワタナベは緑という女性を呼ぶ。ワタナベは様々な経験を経て、最終的に緑に会って話をしたい衝動にかられる。そうして公衆電話から話しかけるのだ。

ワタナベの問いかけに対し、緑は「あなた、今どこにいるの?」と問いかける。
この単純な質問にワタナベは答えられないのだ。なぜ場所が分からないのかは住所を知らないからではない。


居場所が分からないのだ。自分の身を置くべき場所を捉えかねて、どこにいるかが不明瞭になってしまっている状態なのだろう。
しかも緑に指摘されるまでそのことに気づいてすらいない。芯を突かれて押し黙るしかないのだ。それでもワタナベは居場所が分からないまま緑のことを求め続ける。

この点においてワタナベは「鈍感な主人公」と言って差し支えないだろう。

また村上春樹作品においては主人公の視点からは何かが隠されながら進行していくことは多くあるし、考察サイトなども散見される。(「海辺のカフカ」や「色彩を持たない多崎つくる・・・」など)

以上の理由において、瀬尾まいこと村上春樹の類似性が挙げられるだろう。
構造を抜き出して比較するというのは、もちろん内容や表現などを無視したような形で褒められるべき考えではないのかもしれないが、そこに類似点を見出すことができるというのは(私の頭の中では)事実であるし、アウトプットを挟むことで磨かれる何かもあるだろう。

もう少し踏み込んだ類似点を次回したいと思う。

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