悪魔的フェミニズム/サタニック・フェミニズムの系譜について


聖書の蛇に誘惑されて食べたリンゴの実から始まって、聖書における女性蔑視的な問題がグノーシス的な悪魔と神の反転によって神智学などが影響を持ったとされるのだが、グノーシスやマニ教、ゾロアスター教的な観点からすれば男女差の問題より神と悪魔の反転がより根源にあることになろう。ラカンの女性は存在しない、去勢されていない男は存在しない、性交は実現しない、などの命題からすれば、ジェンダーそのものやフェミニズムそのものの再配置が先だろうが、とりあえずキリスト教に限らず汎文化的に男女規定や悪魔(鬼)規定は存在する。思いつくままにアルジェントの映画や最近の魔女(ウイッチ)ものの映画、魔女ではないが女性看護士の服装をしたヒース・レジャーのジョーカーがサタンだという町山智浩の指摘、ヴィランが超自然的な悪魔であるとあっさり片付けてしまうやおい的な多くの作品が想起される。魔女形象なら奥様は魔女、魔女っ子メグちゃん、デビルマンのデーモン一族、等さまざまな現代的な形象、古代中世においてはモニク・ウィテッグが取り上げるようなアマテラス以外に、卑弥呼、鬼子母神、十羅刹などが思い起こされるが、オリエンタリズムの匂いがしなくもない。本来非キリスト教圏は悪魔なのではなかったか。とりあえず神話的に男女は配置され、二元的な対抗原理として世界の体系的説明としてつかわれてゆく。弁証法的というより分類学的な世界説明の恣意的なシニフィアンとしての男女二元設定だが、復活の実存を信じない非キリスト教徒には厳密な意味では悪魔は存在しないのだろうか。フーコー「性の歴史」4巻肉の告白からすれば、はじめは神の似姿である人間が天地創造行為の模倣として生殖するのだが、現象学は人間は自覚的意識をもつことによって神の似姿であると言っているだけのように思えてきた。また外務省が縄文文明と称したことについて文明はおろか文化はカルチャーだから農耕抜きに考えられないという話もあったが、幻想表出は人類の発生とともにあっただろう。

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