水中の哲学者たち2

社会に対する不適応というか違和感のシーンがチラホラ出てくるのだが社会=学校というか大学だろう。議論の場で吊るし上げられ攻撃される(なぜわざわざそんな場に引きずられてゆくのか≒学校だからだろう)描写や、机や椅子の環境に対する違和感、その外に逃げるように消費する食べ物や音楽、大学≒学校内の「労働」としての議論(対話)とそこから逃れて消費する。
何か生意気な茶化すような中学生が出てくるのは対話が学校生活を変えるとは思っていないからか、哲学対話は学校生活のガス抜きか。あちこちの制度空間に対話を供給して歩き回れば、制度を客観化出来る契機もあるかも知れなかろうというものか。

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